2016年12月 4日 (日)

アクセント

言語がアートに与える影響は案外大きいのではないかと思い始めています。

インターネットの発達で、情報の世界地域格差が少なくなっているのにも関わらず、つくりだされるアートにはどこか決定的な地域差が残っていると感じていて、その理由の1つが(あくまで推測の域は出ませんが)、言語なのかもと実は考えているのです。

ところで、十代でアメリカに住んでいた時分、Englishの授業で先生にこんなことを訊かれました。

「Hiroshimaのアクセントはどこにあるの? ヒロ?それともシマ?」

そんなこと考えたこともなかったし、実際どっちでもないので、説明に窮したことを覚えています。

このように、英語に限らず、西洋の言語の多く(すべて?)にはアクセントがあります。アクセントは単語にあるだけでなく、文にも存在します。英語の場合は、その文の最も伝えたいところにアクセントがきます。しかも、1単語、1センテンスに、それぞれ原則1カ所しかつきません。

例えば、ピコ太郎さんのPPAP。

I have a pen. I have an apple.

「持っているもの」を主に伝えたいのであれば、

I have a pen. I have an apple.

と、持っているものにアクセントが来ます。

「私が」持っていることを伝えたいのであれば、

I have a pen. I have an apple.

となります。

英語を話しているときは、意識無意識にかかわらず、常に「強調すべきところ」を決めています。ところが、日本語を使っているときにアクセントを意識することはほとんどありません。むしろ、弁論大会のようなメリハリをつけたしゃべり方を「胡散臭い」と思うように、アクセントを避け、ピークを分散させる傾向があります。

言語は文化であり、意識を形づくります。このように日常的にアクセントどう扱っているかが、言葉の枠を超えて、美意識にも影響を与えているのではないかと、個人的に推測しているのです。

アートにおいて、仮に英語的つくり方と日本語的つくり方があるとすれば、作品のどこかにアクセントを置くつくりかたと、ポイントを分散するつくりかたに分けることができるかもしれません。

アートに限らず、ビジュアル・マーチャンダイジング(VMD)と呼ばれる店舗ディスプレイの考え方にも同様のことがあります。アメリカを中心とするVMDの発想では、どこかに視覚的ピークをつくることが大切な要素の1つとされます。それに対して日本的(東アジア的)ディスプレイでは、様々なものがまんべんなく主張するように配置することが好まれるように感じています。

日本製デジタルカメラの機能が横並びでてんこ盛りになるのも、同様の理由からでしょうか。英語圏でつくられているデジタルカメラがないので安易に比較はできないのですが、GoogleやiPhoneのようなアメリカ発のものが、あのようなインターフェイスを採用しているのを見る限り、もし存在したら、の想像はできます。

鶏と卵のように、言語が先か意識が先かはわかりませんが、共通項は見出せるのではないでしょうか。

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