作家性
先日、4月に修了作を公開した写真ワークショップ第1期のメンバーほぼ全員と「打ち上げ」と称して食事をした。
完全に制作のことを忘れて飲むのかと思って日本橋のバーに行ったら、一人ひとりの作品について何か一言欲しいとのこと。
思えば、参加者の作品についてなら、もしかしたら自分の作品について以上に語れてしまうかもしれないほど、半年間で写真というものを介して皆と多くを共有した。
そして、全員のなかに共通して、ある種の「作家性」が芽生えたことがうれしく、またそのことを誇りに感じている。
ところで、日本のアート界で「表現」あるいは「作家」について語るとき、西洋以上に、「抑圧からの開放」的な要素が、多分についてまわることを以前から感じている。つまり、作家たるもの苦労すべし、制作はその苦悩を原動力にすべし、といった図式だ。
それは、それだけ日本社会が抑圧されているからとも言えるだろうし、ベートーヴェンやゴッホのような苦労話を西洋芸術を輸入したとき同時に輸入したせいでもあるだろうし、単なる分かりやすい思考パターンとも言える。
またそれとは正反対に(あるいはその「苦労コンプレックス」の裏返しとして)、とにかく「明るく」なければいけないという強迫観念を強く抱いている作家も少なくない。
しかし、私がワークショップ参加者の内側に感じたのは、それらと必ずしも関係ない作家性だ。
写真という制限あるメディアのなかで、自らの好みにできるだけ忠実に、テーマ性を考え、それぞれの美意識をもって制作する。自分は何に惹かれるのか、何を美しいと感じるのか、そんなことを常に意識して写真と向き合う。その結果ぼんやりと現れてくる、一人ひとり異なったものづくりの姿勢。
先日集まったメンバーは、おそらくこれからも写真を撮り続けるだろう。ワークショップで培ったその作家性の芽を、これからの長い写真ライフの中で、ある人は小さくても可憐な花に、ある人は青々と葉の茂る大木に、その人なりのスケールで育てていってほしい。

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