2012年5月 9日 (水)

作家性

先日、4月に修了作を公開した写真ワークショップ第1期のメンバーほぼ全員と「打ち上げ」と称して食事をした。

完全に制作のことを忘れて飲むのかと思って日本橋のバーに行ったら、一人ひとりの作品について何か一言欲しいとのこと。

思えば、参加者の作品についてなら、もしかしたら自分の作品について以上に語れてしまうかもしれないほど、半年間で写真というものを介して皆と多くを共有した。

そして、全員のなかに共通して、ある種の「作家性」が芽生えたことがうれしく、またそのことを誇りに感じている。

ところで、日本のアート界で「表現」あるいは「作家」について語るとき、西洋以上に、「抑圧からの開放」的な要素が、多分についてまわることを以前から感じている。つまり、作家たるもの苦労すべし、制作はその苦悩を原動力にすべし、といった図式だ。

それは、それだけ日本社会が抑圧されているからとも言えるだろうし、ベートーヴェンやゴッホのような苦労話を西洋芸術を輸入したとき同時に輸入したせいでもあるだろうし、単なる分かりやすい思考パターンとも言える。

またそれとは正反対に(あるいはその「苦労コンプレックス」の裏返しとして)、とにかく「明るく」なければいけないという強迫観念を強く抱いている作家も少なくない。

しかし、私がワークショップ参加者の内側に感じたのは、それらと必ずしも関係ない作家性だ。

写真という制限あるメディアのなかで、自らの好みにできるだけ忠実に、テーマ性を考え、それぞれの美意識をもって制作する。自分は何に惹かれるのか、何を美しいと感じるのか、そんなことを常に意識して写真と向き合う。その結果ぼんやりと現れてくる、一人ひとり異なったものづくりの姿勢。

先日集まったメンバーは、おそらくこれからも写真を撮り続けるだろう。ワークショップで培ったその作家性の芽を、これからの長い写真ライフの中で、ある人は小さくても可憐な花に、ある人は青々と葉の茂る大木に、その人なりのスケールで育てていってほしい。

_0011187

(c) all rights reserved

|

2012年4月18日 (水)

絵画と写真の間

私はたいがいプロフィールに「artist」というのを「photographer」より前に入れている。それを多くの方は、音楽もやるからと理解してくださっているのだが、本音はちょっと違う。

実際は、自分がやっているのは大枠で言うアートで、音楽、写真といったジャンルは二の次という、けじめのなさがそうさせている。

高校・大学でやっていた絵画は、賞をいただいたり、いくつかの本の挿絵や絵本の出版といった、今日では履歴書に書くこともない経験へとつながった。だが心は、不思議と絵画には全く傾かなかった。

やり場のない、表現を渇望する飢えた私の精神は、作曲というものにその頃出逢った。そして、やめておけばいいものを余計な苦労をわざわざ買って作曲の修行を始め、絵筆は一旦置いた。

その後写真に出逢ったときは、かつての絵心はようやくここで発揮されると思って安心した。

ところが昨年、かつて挿絵を描いた絵本の著者たちに「絵をもっと描いてほしい」と言われた。時をほぼ同じくして、海外の写真のコラージュをするアーティストたちの作品を見た。

そのときアイディアが閃いた。もしかしたら写真と絵画を一緒にできるかもしれない、と。

4/22〜30までの写真展「Life」は、インドネシアンカフェという環境なので、通常のじっくり見てもらう写真展のときとは違う、実験的な作品を出したいと思っていた。そこで、その閃いたアイディアを採用し、1枚だけ、つくってみた。

半分が写真で、半分が鉛筆画。

高校時代アメリカで、まだ友人の少なかったころ、孤独感を紛らわせるため、また、持て余していた暇な時間を埋めるため、鉛筆画をたくさん描いた。それらは図らずも、友だちをつくるための手段になった。鉛筆画を描いては周囲の人たちにプレゼントすると、皆がよろこんでくれた。

その頃身に付けた技法はずっと健在だったが、あまり発揮する場なく今日まで来た。

今回このようなかたちで発表することを、ちょっとうれしく思う。というのも、写真でもないし絵画でもないこの作品は、100%写真家でも100%画家でも100%音楽家でもない私自身に、ちょっと似ているからだ。

Spring2012001

(c) all rights reserved

|

2012年4月 2日 (月)

友情

先日、個人の写真をパーソナルなギフトとして撮影する「Photo For You」というプロジェクトの一環として、東京芸大で学ぶミャンマー人のハープ奏者を撮影した。

実は彼女とは2004年にラオスで行われたASEANユースキャンプという、東南アジアの若い芸術家の集いに一緒に参加していた。

私は日本側のリーダー(引率者)として参加していて、多くの若い友人がアジア中にできたのだが、そのなかでも飛び抜けて人なつっこかった彼女は、非常に印象的に残っていた。

Su005_2

その数年後「日本に留学する」という連絡が彼女から来た。国では既にトップ奏者の一人である彼女が、いったいに日本に何を学びにくるのかと思ったが、演奏ではなく、音楽学の修士と博士を取ると聞いて納得した。音楽で博士号を持っている人がまだミャンマーにはいないということで、おそらく相当期待されての国費留学だ。

修士を取り終え、4月からまた博士課程に入る彼女に、写真を撮ってほしいと依頼を受けた。私のほうからリクエストして、式がある日に、学校で撮ることにした。

私も以前、異国に留学したことがあるから、これまでの彼女の孤独と困難はよく分かる。それを持ち前の明るさで乗り越えてきている彼女は、文字通りこれから祖国の音楽を背負っていくのだろう。

Su003

(c) all rights reserved

|

2012年3月29日 (木)

意識を向ける

写真ワークショップを昨年秋からやっている。修了しても何か資格が与えられるわけでもない、独自の写真観にもとづいて組まれた3ヶ月で6回のプログラム(あるいは短期で2日間集中というのも行った)を比較的少人数でやっている。

毎回、次回までの宿題を出すのだが、参加者は皆必死にやってきてくれる。その結果、写真に何らかの変化が現れる。ある人はなだらかに(あるいは螺旋状に)、またある人は急激にその写真を変化させる。

もうかなりの写真が撮れている人の安定した作品は他の参加者の手本や刺激になるし、彼らもいわゆる初心者にアドバイスすることで何かを学ぶ。そのように参加者どうしが影響しあえるのが、グループワークの最大のメリット。

私のワークショップは決して、何かの技術を学ぶものではない。その中身を要約すれば、「意識していなかったものに意識を向ける」、それに尽きるであろう。

多くの人は、何かに意識を向けるだけで、もしそこに欲しいものを見つければ、もっと求めようとするし、仮に問題に氣づけば、自分でそれを解決するように動く。

不思議なことに、プログラムを信じてコミットしてくれる参加者は、「プリントの密度」が回を重ねるごとに少しずつ濃くなっていく。テーマ性が濃くなるだけでなく、同じプリンターを使っているはずなのに、プリントそのものの質が変化していくプロセスは、傍で見ていて感動さえする。

プログラムを終えた参加者は、その後3ヶ月の作品制作期間与えられ、「修了作品」をウェブで公開することになっている。

昨年末に終えた第1期の参加者の作品が、少しずつ私の元に届いているが、どれも力作だ。それらは4月に公開予定(現在、4月から始まる第3期参加者募集中)。

_1115939

(c) all rights reserved

|

2012年3月21日 (水)

視座

写真展に、通りがかりのご夫婦が来てくださった。

ブロンドヘアの淑女が、私の撮った蓮や水たまりのプリントを指し、これらが好きだと言ってくださった。ヨーロッパで働いているとおっしゃる紳士が彼女を指し「家内も写真やってるんだけど、撮るのが壁のシミとかなんだよ。私にはちっとも分からない」とおっしゃった。

どういうことなんでしょうねという紳士に、私は少し考えてから、こういうことを言った。

「写真家は、モノではなく、視座を写すからではないでしょうか。」

写真家が写真に残すものは、被写体そのものではなく、その被写体を彼/彼女がどう見ているのか、カメラやレンズを通してそれをフレームの中でどう見たいのか、そういう「視座」なのではないか。

美しい花を見たとき、その花をフレームの中でどのように見て、どうcomposeし、どういう色で再現すればその感動を他人に伝えることができるか、それを視覚的・具体的に写真をもって提示できるのが写真家なのではないか。

また、上記の淑女の撮る壁のシミのような、一般には美しいと思えない被写体が、写真家による新しいユニークな視座を与えられることによって、美しいものへと昇華する。これも写真家の役割なのではないか。

かつてウォルフガング・ティルマンスが、写真家の役割は世界の再定義だと言っていたが、それは、美じゃないものに写真家が新たな視座という別な定義を与えることで美へと昇華させる、そんな意味合いも含まれているのではないだろうか。

R1114269

(c) all rights reserved

|

2012年3月11日 (日)

あれから

1年経った。

起きた直後、大いに悩んだ。自分に何ができるのかと。

とにかくやれることをやろうと、わずかではあるが募金やボランティアをし、チャリティイベントに参加したり企画したりしたが、自分に本当の意味でのお役目あるとしたら、それは違うところにあるのではないか、そんなことを感じながらやっていた。

さんざん考えて、自分なりに出した結論は、被災地の方々をはじめ、理不尽な境遇、辛さを経験された方が、人生のどこかのタイミングで、たまたま何かの偶然で私の作品に触れる機会があったとき、その方の魂に寄り添い、その傷に深く共感することができる、そんな作品を一つでも多くつくる、というものだった。

なかなかそのお役目を全うすることはできないが、その想いに今も変わりはない。

L1002550

(c) all rights reserved

|

2012年2月27日 (月)

写真と音楽(2)

3/15のライヴの準備を進めている。

このライヴでは、作曲家としてピアノを弾き、写真家として一部の曲の背景に写真をプロジェクトする。

私は今もっとも音楽と写真の関係を考えている者の一人だと自負しているが、以前は両者は別物、音楽は音楽、写真は写真だと思っていた。同時にやることがあっても、それはコンサートに変化をつけるためくらいの軽い認識だったと思う。それは、それぞれをつくるプロセスの違いにばかり意識が行っていたからだ。

ところが近年、実は似ているのではないか、写真と音楽には、思っている以上に共通点があるのではと思うようになってきた。

あるテーマ性のもと、可能な限り撮影し、多くのネガの中からセレクトし、それを暗室でプリントというものに仕上げるプロセスは、テーマを決め、可能な限り多くのモチーフのスケッチをし、その中から主題になりうるものをセレクトし、曲として構築するというプロセスに似ている。

写真のトーンは、音楽のハーモニーと共通点が多いし(同じ「キー」という言葉が使われたりする)、写真の、シャドーにウェイトを乗せる作業は、音楽の、ベースに圧力を持たせる作業に通ずる。

現代人の耳に、クラシック音楽が(非常に緻密できわめて高度なことをやっているにも関わらず)なぜ退屈に聞こえてしまうかということの理由を考えるとき、それを写真にしたらどんな画になるかを想像してみると、案外ヒントが見えたりする。

3/15のライヴは、想像の中で画を展開しながら弾くことを、これまで以上に意識したいと思っている。ピクチャーを時間軸の聴覚に置き換えたい。聴き手のイマジネーションを信じ、そこに向けて音を響かせたいと思う。

_1114990

(c) all rights reserved

|

2012年2月21日 (火)

好きな道具

私は自分のワークショップ参加者に「迷ったときは楽しいほうを選べ」と言っている。それは、たとえばその日撮影する機材を選ぶとき、どっちにしようか迷ったら、楽しいと感じるほうを持ち出せ、ということである。

なぜなら、楽しいと感じる道具だと、それを使うという行為自体が楽しいから、それに没頭できる可能性が高くなるからだ。没頭する時間が長くなれば、自ずと結果がついてくる率も高まる。もし仮に結果が出なかったとしても、充実感は残る。

参加者のなかには職業で写真を撮っている人もいることはいるが、ほとんどの人にとっては趣味か表現活動である。苦痛になっては続かない。

以前どこかで、イチロー選手が小学生に、どうやったら野球が上手になるか訊かれたとき、道具を大切にしなさいと答えたという話を読んだことがある。

道具を大切にし、愛着を持つようになると、人によっては、その道具を使うということについての「パーソナルな意味」が出てくる。使えば使うほど、思い入れが深まり、もっと使ってみたいと思うようになる。こういう風に使ったらもっと上手になるかもしれないというアイディアも出てくる。

この「もっと使ってみたい」という氣持ちが、物事の上達には大切だと思う。なぜなら、プロセスが楽しいと自然に「量」が増え、その結果「質」もついてくるからだ。

私は、本人が望まない限り、初心者に「初心者向け」と呼ばれる道具を勧めない。

それは、かつて私が写真を本格的にやるようになる前、人から勧められた機材を使って、写真を撮るという行為に飽きてしまったことがあるからだ。できれば、その人が「いずれは○○を」と思っている○○そのものを、最初から使ってみることを勧める(ただし「本氣なら」という条件付きで)。

カメラだろうと、楽器だろうと、スポーツの道具だろうと、初心者向けもプロ向けも原理や仕組みは同じ。好きでもない道具に金銭や時間をかけるのはもったいない。はじめから使いたい道具を使って、それを楽しんで使うのがいいと思う。

R1114063

(c) all rights reserved

|

2012年2月14日 (火)

間奏

以前のエントリーで、作品に手間をかけることの大切さについて書いた私だが、殊手紙に関しては、電子メールではないリアルメールになると、とたんに手間をかけることがおっくうになって、よく返事を出しそこねる。

荷物も、荷造りしたり住所を書いたりするより手渡しのほうが精神的に楽で、距離的に可能なら電車を乗り継いででも手渡ししたくなる。自分でも不思議。

|

2012年2月 8日 (水)

写真と音楽(1)

3月15日に南青山マンダラで、フォトジャーナリストの佐藤慧さんとライヴを行うのだが、その準備を少しずつ進めている。

ご存知ない読者の方も多いと思うが、私は写真家よりも音楽家としてのキャリアのほうが実は長い(ちなみに佐藤慧さんは大学で音楽を専攻していた)。ずっと音楽と写真を別物として取り組んできたのだが、試行錯誤の末、ここ1、2年でようやく違和感なく一緒にできるようになった。

「一緒にできる」というのには、つくる過程や表現方法が似てきたということが一つと、スライドショーなどのかたちで一緒にみせる/聴かせるということが可能になったという、二つのことがあるが、今回は後者について述べてみたい(前者についてはまた後日)。

一緒に提示できるようになった背景には、音楽と写真、それぞれが互いを助け合うための条件というものを、経験則として少しずつ身に付けてきたということがある。

その条件とは、簡単にいえば、一方が「語りすぎない」ということだ。

たとえば、音楽の構成要素には、リズム、メロディ、ハーモニーがあると一般にいわれるが、そのなかでもっとも「語る」のがメロディだ。

リズムとハーモニーは、全体の雰囲氣、モードをつくりだすが、メロディは、語ることでそれに「意味付け」する力を持っている。それは、メロディというものが、人間の話し言葉に近いことと大きく関係しているだろう。

写真には写真の語りたいこと、意味がある。しかし、それとは別な言葉を音楽が語り、別な意味付けをしてしまうと、双方がちぐはぐな印象を与えてしまう。言い換えれば、写真がしゃべるつもりじゃなかったようなことまで、おしゃべりなメロディが勘違いしてぺらぺらしゃべってしまうというようなことだ。

それゆえ、写真と一緒に使う音楽は、適度に無口、つまりメロディアスでない、抽象的なほうが扱いやすい。または、具体的なメロディを使いたいのであれば、その言葉を、写真が語りたい言葉とある程度一緒にさせる必用がある。あるいは、音楽が具体的な分、写真のほうを抽象的にするのがセオリーだ。

ところが、だからといって、一方を抽象的にさえすればそれでいいかといえば決してそうとも限らない。そこはある程度の数をこなして、写真と音楽が一致する感覚を経験的に身につけるしかない。法則はあくまで法則であって、人に感動を与えるようなものはえてして、法則からはみ出るようなものであったりするものだ。

_1105703

(c) all rights reserved

|

«徹底したリアリズム