2017年11月10日 (金)

スローカメラが心地いい

ここのところ、動画のお仕事をたくさんやらせていただいています。その反動ではないと思いますが、静止画のほうは、スローカメラがいっそう心地よくなってきました。

もともとデジタル一眼レフで連写とかが苦手なうえに、フィルムの値上がり、そしておそらく加齢も手伝って、撮影テンポが以前に増してスローになってきています。

先日も神戸のワークショップで、望遠レンズたちのなかに混じって二眼レフで子どもの運動会撮ってるとか言ったら笑われましたが、ほんとうにそんな感じなのです。

そんな折り、仕事で数年前のネガをスキャンする機会がありました。スリーブにいっしょに入っていた日常のスナップを見ていたら、個人的な思い出を残すのに、毎秒何枚の連写も、オートフォーカスも、自動露出もいらないんじゃないかと思ったのでした。

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どの写真にも、そのとき、その場、その人がちゃんと見えています。

フィルムカウンターがついていないカメラなので、ダイヤルでフィルムを巻き上げつつカメラの裏の赤い覗き窓からフィルムの紙に書いてある数字を合わせて、ピント合わせも左右逆のスクリーンで、シャッターチャージと巻き上げの順番をまちがえると撮れなかったり、しかも1本で12枚しか撮れないと、今の感覚では不自由だらけのカメラですが、ちゃんとその人の表情やクセも捉えています。

次に買うカメラは大判かなあ、あるいはこのカメラ壊れちゃったから買い替えるかな、愛着もあるから修理かななんて考えています。

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ROCK YOU 2018
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2017年9月19日 (火)

待つということ

昨晩、10月に行われる写真ゼミ修了展「Extended Self」にむけた補講を行い、その後有志で食事に行きました。

今回のゼミは通算で14期、市ヶ谷のカロタイプでの最初のゼミ。それを行うにあたって自分に課したのが、「執着を手放す」ということでした。

これまでのゼミでは、宿題を毎日ネットに上げる、シェアする、ということをやっていました。能動的なメンバーの多いグループだと、それはそれは盛り上がり、仲間の投稿に刺激されて私も私もとなりました。受動的な受講生の多いグループだと、逆に負荷になりました。

今回のゼミではそのネットでの活動をやりませんでした。1つの執着を手放しました。

もう1つ手放そうとしたのは「教える」ということ。講師なのに教えないとはけしからんと言われそうですね。

かわりにやったのは、待つということ。

故・河合隼雄さんは、カウンセリングとは「ひたすら待つこと」という意味のことを言っていました。写真講座とカウンセリングをイコールでは結びつけられませんが、その人の潜在的に持っているものを引き出すという意味では似ていると思ってます。

出された課題にたいし各自がやってきたことを視て、そこから受講生の精神の動き、エネルギーが行きたがっている方向を読み取って、次につながるヒントを出す。その人が「つくるひと」であることを信頼して。

ということをやっていたつもりです。うまくできたかどうかはわかりません。うまくできていなかったかもしれません。

でも、昨晩みんなの作品を見て、グループ展のタイトルが示すように、一人ひとりの自己は多かれ少なかれ拡大したと実感しました。

そうそう、もう1つ手放したのは、食事のこと。これまでのゼミでは、受講生と食事に行かないというルールを自分に課していました。それは、どうしても食事に行った人とそうでない人とでは心理的にアンバランスになるから。でも、今回はそれもどうでもいいやとしてみました。過去のゼミ生のなかには、びっくりする人もいるかもね。

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安達ロベルトゼミ 14 期 修了展 ー Extended Self ー
2017/10/10〜15
Roonee 247 fine arts

http://www.roonee.jp/exhibition/room1-2/20170907135619

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2017年7月27日 (木)

料理がネイティヴ言語のシェフ

よく行くレストランのシェフが、メニューにないものもリクエストすると、その通りの料理を出してくれる。どんな食材でも、どんなリクエストにも応えてくれ、しかも一定のクオリティがあるので、もしやと思い訊いてみると、やはり就学前から料理をしていた。料理を仕事にするお母さんのまねをして、幼い頃から自分で料理していたのだという。

彼にとって、料理(味覚)は「言語」なのだ。

私たちが言葉を聞いて、覚え、考え、それをしゃべるように、彼は料理を食べて、覚え、それをつくっていた。私はそれを「味覚の言語をしゃべる」と考える。

味覚で「考える」ことができるから、リクエストしたとき、我々が想像できないレベルでそれを具現化できる。ふつう「考える」というと言葉で考えることを指すが、抽象的なことを考えるように、彼は「味覚で考える」のだと思う。

たとえば、幼い頃から音楽を多く聴き、覚え、演奏してきた人たちは、「音楽が言語」であり、「音楽で考える」ことができる。

視覚で考える人もいる。幼い頃から運動をたくさんやってきた人は身体で考えるんだろう。

もちろん、大人になってから新しい「言語」を身に付けることはできる。しかし、幼少期に身につけた言語と違い、「ネイティヴ」にはならない。

例が適切かわからないが、アグネス・チャンやデーブ・スペクターは、これだけ永い間日本にいて、日本語ペラペラなのに、いまだどこか不自然さがある、そういうことだ。

上述のシェフの料理には一定のクオリティがあると書いたが、それは「味が自然」と言い換えてもいい。ネイティヴがしゃべる言葉のごとく、どんな料理にも違和感がないのだ。

私はいろんな音楽(西洋音楽)の訓練をしてきたが、どうやっても拭いきれない不自然さがあることに以前から氣づいていた。それはたぶん、私が西洋音楽を大人になってから始めた、「ネイティヴ」じゃないからなのだ。

しかし、同じ音楽でも、生まれ育った町で幼い頃から慣れ親しみ、しかもある年齢から自分でも弾くようになった伝統音楽には、同じような不自然さを感じない。

人間には無限の可能性があるとは思うが、一度幼少期に(不必要と脳が判断して)手放したものは、回収できないのである。

ただしこれは、何かをするのにネイティヴじゃなくてはいけないという話ではないので誤解なきよう。感動する話は、ネイティヴじゃなくてもできるし、私はそれをたくさん聞いてきた。

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2017年7月 1日 (土)

アナログ回帰の話、ふたたび

音楽ではアナログ回帰が進んでいます。ソニーがおよそ30年ぶりにアナログレコードを生産すると発表しました。

楽器でもそうです。

一時期は電子楽器、シンセサイザーといえばデジタルだったのが、近年次々にアナログシンセサイザーやドラムマシンが発表されています。

完全なアナログ制御も多いのですが、オシレーター(発信器)はアナログで、それを制御するのはデジタル、あるいはその逆、というのも多く見られます。

アナログ楽器が好きな人は共通して、音が「太い(fat)」、「豊か(rich)」だと言います。音に存在感があるから、薄いトーンのPadなんかにしても、アナログシンセはしっかり聞こえるわけです。

写真はどうでしょう。

広義のフォトグラフィーでは、アナログ回帰は相当進んでいます。

デジカメ生産国日本のだんだん小さくなって行く量販店のアナログ写真コーナーを見ている限りあまりピンときませんが、世界的にはそうです。

アジア圏全般のアナログ写真人氣はしばらく続くでしょう(一部のフィルムカメラは数年前の2〜3倍くらいの値段で売り買いされています)し、ヨーロッパではモノクロ関連の感材の売り上げが伸びています。新しいフィルムも昨年と今年だけで何種類も発売されています。

加えて、ハリウッド映画が近年、積極的にフィルムで撮影されていることも追い風です。

また、先日ハイブリッド(デジタル+アナログ)インスタントカメラが発売されました。永嶋さんが開発したDGSMプリントもハイブリッドです。

写真でアナログというと、およそフィルムと印画紙なわけですが、もしかするとまだ誰も発見していない別なアナログ形式というのものが見つかるかもしれません。あるいは新しいハイブリッドのかたちが。

個人的にはまたたのしみな時代になってきました。

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2017年6月12日 (月)

写真の未来と人間の未知な領域

Facebook社のクリス・コックス氏によると、2022年までにインターネットの通信量の75%が動画になるという予測があるそうです。

静止画の写真がなくなることはないでしょうが、情報伝達の目的で静止画が使われる割合は、現在よりぐっと小さくなるのでしょう。

情報伝達の役割が大きかった絵画に、写真の登場とともに、アートとしての役割が増えたように、静止画の写真もそうなっていくのでしょうか。

いま懸命に静止画の写真撮影術を学んでも、その頃には大きく変わっている可能性があります。

また2016年は「VR元年」と言われました。数年前の立体テレビは二千円札と同じくらい普及しませんでしたが、いまのVRの台頭はホンモノのように思います。

静止画、動画、だけでなく、立体映像を一般市民が専門技術なしに撮影できるようになる時代もそう遠くないでしょう。

静止した2次元のものが中心だったアートは、時間軸が加わり、さらには立体化、3次元化していきます。

不思議なもので、人間は視覚と聴覚にまつわる創作をアートと呼び、味覚、嗅覚、触覚はあまりそう呼ばない傾向があります(もちろん芸術的と呼ばれる料理、香水等は多数あります)。

しかし、これからのアートには、残りの3感が積極的に取り入れられていく可能性があるように私は思います。少なくとも、その余地は多分にあります。

現代社会では、視覚、聴覚、そして言語を使う才能(読み書き読解を含め)、運動能力は、小さい頃ころから伸ばそうとしますが、それ以外の感覚にまつわる能力を積極的に伸ばそうとする人は少数です。

味覚、嗅覚、触覚といった、いまの学校教育ではさほど重要視されていないところに能力がある人は当然いるわけで、我々の将来と、全身体的な能力を考えると、もっともっと開発されていいのではないかと私は考えます。

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