2017年7月 1日 (土)

アナログ回帰の話、ふたたび

音楽ではアナログ回帰が進んでいます。ソニーがおよそ30年ぶりにアナログレコードを生産すると発表しました。

楽器でもそうです。

一時期は電子楽器、シンセサイザーといえばデジタルだったのが、近年次々にアナログシンセサイザーやドラムマシンが発表されています。

完全なアナログ制御も多いのですが、オシレーター(発信器)はアナログで、それを制御するのはデジタル、あるいはその逆、というのも多く見られます。

アナログ楽器が好きな人は共通して、音が「太い(fat)」、「豊か(rich)」だと言います。音に存在感があるから、薄いトーンのPadなんかにしても、アナログシンセはしっかり聞こえるわけです。

写真はどうでしょう。

広義のフォトグラフィーでは、アナログ回帰は相当進んでいます。

デジカメ生産国日本のだんだん小さくなって行く量販店のアナログ写真コーナーを見ている限りあまりピンときませんが、世界的にはそうです。

アジア圏全般のアナログ写真人氣はしばらく続くでしょう(一部のフィルムカメラは数年前の2〜3倍くらいの値段で売り買いされています)し、ヨーロッパではモノクロ関連の感材の売り上げが伸びています。新しいフィルムも昨年と今年だけで何種類も発売されています。

加えて、ハリウッド映画が近年、積極的にフィルムで撮影されていることも追い風です。

また、先日ハイブリッド(デジタル+アナログ)インスタントカメラが発売されました。永嶋さんが開発したDGSMプリントもハイブリッドです。

写真でアナログというと、およそフィルムと印画紙なわけですが、もしかするとまだ誰も発見していない別なアナログ形式というのものが見つかるかもしれません。あるいは新しいハイブリッドのかたちが。

個人的にはまたたのしみな時代になってきました。

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2017年6月12日 (月)

写真の未来と人間の未知な領域

Facebook社のクリス・コックス氏によると、2022年までにインターネットの通信量の75%が動画になるという予測があるそうです。

静止画の写真がなくなることはないでしょうが、情報伝達の目的で静止画が使われる割合は、現在よりぐっと小さくなるのでしょう。

情報伝達の役割が大きかった絵画に、写真の登場とともに、アートとしての役割が増えたように、静止画の写真もそうなっていくのでしょうか。

いま懸命に静止画の写真撮影術を学んでも、その頃には大きく変わっている可能性があります。

また2016年は「VR元年」と言われました。数年前の立体テレビは二千円札と同じくらい普及しませんでしたが、いまのVRの台頭はホンモノのように思います。

静止画、動画、だけでなく、立体映像を一般市民が専門技術なしに撮影できるようになる時代もそう遠くないでしょう。

静止した2次元のものが中心だったアートは、時間軸が加わり、さらには立体化、3次元化していきます。

不思議なもので、人間は視覚と聴覚にまつわる創作をアートと呼び、味覚、嗅覚、触覚はあまりそう呼ばない傾向があります(もちろん芸術的と呼ばれる料理、香水等は多数あります)。

しかし、これからのアートには、残りの3感が積極的に取り入れられていく可能性があるように私は思います。少なくとも、その余地は多分にあります。

現代社会では、視覚、聴覚、そして言語を使う才能(読み書き読解を含め)、運動能力は、小さい頃ころから伸ばそうとしますが、それ以外の感覚にまつわる能力を積極的に伸ばそうとする人は少数です。

味覚、嗅覚、触覚といった、いまの学校教育ではさほど重要視されていないところに能力がある人は当然いるわけで、我々の将来と、全身体的な能力を考えると、もっともっと開発されていいのではないかと私は考えます。

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2017年6月10日 (土)

多く読まれている記事

2012年の1月にこのブログ「焦点:」を立ち上げているので、かれこれ6年半くらい書いていることになります。

連続して書くこともあれば、休んだりもしますが、飽きっぽい私が、一銭も入らない仕事をこれだけ続けていることを自分で褒めてやりたいと思います。

よく「いつもブログ読んでます」とか「隅々まで読みました」とか「休暇中にずっと読んでました」とか言われて、うれしい反面、どこかに隠れてしまいたい氣分にもなります。

私みたいな者でも写真についてたくさん書けるのは、音楽や絵画など他のアートフォームに比べて、写真には解明されていないこと、説明されていないことが多いからだと思っています。

かつてはもっとカメラ機材に寄ったブログも書いていて、そのときのほうがアクセス数は多かったのですが、物欲を刺激するのはいまは他の方に任せています。

ちなみに「焦点:」の名前は、日曜日に放送されている「笑点」からとりました。番組名は「焦点」のモジリだそうです。

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さて、今回は、これまで書いた記事のなかから、よく読まれているものをいくつかご紹介します。

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テーマとモチーフ

ためしにGoogleで「テーマとモチーフ」と検索してみましたら、上位に出てきます。ちょっと前の記事ですが、今でも多くの人が(どこから来るのか分かりませんが)読んでくださってます。この記事を書く以前は、「花をテーマに撮ってます」とか言う方が多かったのに、最近は少なくなったと感じるのは、この文章の影響も少しはあるのかなと思ったりしてます(ちがうかも)。

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写真に写るもの(1)

「『何を撮っていいか分からない』となった人は、写真を撮る動機をもう一度見つめ直すべきだ。なぜなら、そういう状態のとき、たいていの人は『人の目にどう映るか』のために写真をやっているからだ」という内容のことを書いて、一時期SNSでかなりシェアされました。

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焦点

記念すべき最初の記事。

「写真はよく『選択の芸術』と言われるが、ここでいう選択とは、何にfocusし、何にfocusしないかという『焦点の選択』なのである。」

今でもこの通りだと思っています。

この記事に添付した下の写真、この場所も最近取り壊されました。

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2017年6月 5日 (月)

リニア脳と非リニア脳

細野晴臣さんと星野源さんの本「地平線の相談」を読んでいたら、細野さんが左脳を使うからなるべく音符を使わないという意味のことを言っていました。音楽は右脳でやることだから、と。

それは実感としてよくわかります。楽譜に限らず、文章も、書き続けると頭が左脳化してきます。

楽譜はともかく、文は完全に「リニア」、つまり、一直線に進むものです。同時多発できないのです。例えば音楽や他の美術は、同時に何音か鳴っていたり、複数のレイヤーがあっても成立しますが、言葉に限っては、左から右、または上から下にのみ1本の線として進むことが大原則です。そうでないと理解してもらえません。

描写が上手いと言われる作家は、本来は順序なく同時多発で起きていることを、一直線の文章に「順序だてて」置き換えることに長けているわけです。それは、3次元の情報を1次元にする作業です。

読者は、頭のなかでそれを3次元に展開します。優れた作家というのは、それを「4次元」くらいに感じさせてくれる技術の持ち主なのかもしれません。

ともかく、私の場合、文章に長い間集中していると、次第に頭のなかが言葉で満たされ、「○○だから××だ」と、リニアでロジカルになっていきます。

逆に、非リニアな仕事を続けているときは、文章が書けなくなっていきます。ここのところブログが滞りがちなのはそのためです。

私たちは何かを「考える」とき、言葉で考えることがほとんどだと思うのですが、アートでは、言葉やロジック以外で考えることがとても大切です。

先日整体に行ったとき、「頭がとても疲れてますね」と言われたのは、しばらく左脳を使いすぎていたんだと思いました。その後、右脳の仕事が続いているので、いま頭はちょっと非リニア。久々にブログでリニアになりました。

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2017年5月18日 (木)

幼少年期にのめり込んだことを今に活かす

写真をやっているときのわくわくする心の動きが、何かに似ているなあと思っていたら、小学生のときにやっていた釣りじゃないかと思い立ちました。そのころはもっぱら川や池などで釣っていて、釣り大会に出たこともありました。

釣りは、目的の釣りたい魚がいて、何日か前から準備して、当日は朝早く起きてポイントに行って計画通りにスタートするわけですが、天候や水のようすから、現場でポイントや仕掛けに若干の変更を加えていきます。

その結果、釣れるときもあればそうでないときもあります。釣れればもちろんうれしいですが、そうでなくても、その一連の行為がたのしいのです。

写真家には大きく分けて「シューティングタイプ」と「フィッシングタイプ」の2種類がいると言われていて、私は間違いなく後者。準備して、待って、タイミングが来たときに合わせる、という撮り方。前者は、途中までは似ていますが、最後のところで獲物のタイミングではなく自分のタイミングでズキュンと撃ち抜くわけです。

道具がよくなれば上手になるような幻想を抱かせてくれるところも釣りと写真の似ている点です。

それから、高校時代、アメリカに住んでいた時分に、たくさん鉛筆画を描きました。田舎だったので車がなくては放課後は何もできなかったので、毎日画を描いているか走っているか、みたいな感じでした。

もっぱら人物を描いていました。友人知人から描いてほしいと依頼されることもあれば、こちらから勝手に描くこともありました。

振り返ると、その鉛筆画は、私が今モノクロフィルムで撮って印画紙に焼き付けていることと本質的に変わらないと思います。

才能というのは人それぞれで、どのような分野でも、第一線で活躍する人はたいがい、かたちはちがえど、幼少年期にたくさんやったこと、たくさん学んだことを活かしています。

例えば、少年期のプリンスはまったくモテずギターばっかり弾いていたとか、村上春樹さんは本をとにかくたくさん読み音楽をたくさん聴いていたとか、そういう話をよく聞きます。

私が彼らに匹敵するとかそういう話でなく、やはり昔たくさんやっていたことを活かすことが活躍できる方法なんだなとあらためて実感しているという話です。

だれにでも1つや2つ、幼少年期にのめり込んだことがあると思うのです。大人になってから新しいスキルを学ぶのもいいのですが、そこに、幼少年期にうんざりするほどやったことを活かすという意識を加えるだけで、ずいぶん結果がちがうはずです。

今月末に始まる写真講座「光の時」では、各自が幼少年期に経験したこと、獲得したことにフォーカスして、それを写真に反映させるということもやってみたいと思います。まだ空席があるようなので、興味のある方はぜひ連絡を取ってみてください。

写真講座「光の時」詳細は→こちら

Seki

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