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2012年1月

2012年1月27日 (金)

おじいちゃんカメラ

最近一部の人が使っている「ガンレフ」とかいう奇妙な言葉の範疇に含まれるのかどうか定かでないが、数日前に生まれて初めて二眼レフカメラを買った。

その戦前製の機械は、各ツマミが何の役割かさえ分かってしまえばマニュアルなしでおおよそ操作できるようなシンプルな構造。電池なんてもちろん必要ない。

シャッタースピードにせよ、フィルム巻き上げにせよ、現代のカメラからみればあらゆる機能が大雑把。人によってはこういうカメラを使っていると不安になるのかもしれないが、私は逆に安心する。

そこには、カメラに詰めたいわゆる中判と呼ばれるサイズのモノクロフィルムが、少々露出が違ったり多少適当に撮ったって写真を成立させてくれるだろうし、往年のレンズが、何を撮ったってそこそこ画にしてくれるだろうという、信頼と言うより甘えに近い安心感も含まれる。

外見にまったく威圧感はないが、当時の先端機器な訳だから、チープな感じもあまりない、適度な距離のある安心感でもある。古いレンズを通してファインダーに見える真四角の映像も、世界をそのまま肯定したくなるやさしさだ。

まだ最初の1ロールを撮り終えたばかりだが、こういうカメラで撮っていると、まるでおじいちゃんと話をしているような感覚になる。こちらがどんな話題で何を話しても「そうかそうか」と穏やかに笑って受け止めてもらっている感覚。12枚しか撮れないから長話はできないけど、とにかくすべてをやさしく肯定してもらえている感覚。

他方デジタルカメラは、ウェブ上でSNSをしているときの感覚に近い。それは、大勢とすごいスピードで情報交換できるが、間違ったことを書いていないか、誰かを傷つけていないか、常に何かを氣にしながら、神経を使って言葉を選ぶ感覚だ。

効率的であることが大切にされるこの社会でのんびりおじいちゃんカメラを使っていると、すごくシンプルだけど大切な「何か」を、我々はどこかに忘れたきりにしてるんじゃないかと感じる。

とか言いつつ、最初のロールは操作を誤って、まともに撮れていなかった。つまり私のせいで、おじいちゃんに話が通じていなかったのだ。だが、それでいいのだ。おじいちゃんとゆっくり話したその時間こそが、貴重だったのだから。

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2012年1月20日 (金)

旅でカメラを持つ理由

いまでは想像もつかないことだが、人生のある時点まで私は写真をほとんど撮らなかった。とくに友人たちと旅行に行くときなど、ぜったいにカメラを持っていかなかった。

実はそれには理由があって、まだみんながカメラを持っていなかった時代、カメラを持っているというだけで、記念写真を行く先々で撮らされ、それを帰ってからDPEに出して人数分「焼き増し」をつくって配るというボランティアを暗に押し付けられることに、無精な自分は耐えられなかったからだ。しかもそのうち、「あのときの写真、はやく見たいなあ」などとプレッシャーをかけられたりして、善意でやっているはずなのに「ごめん、もうちょっと待ってて」などと立場が逆転したりしたから困った。

損な役割が私にまわってこないよう、大義名分として「何を見るかより、何を感じ、何を考えるかの方が大切だから、あえて旅にカメラを持っていかない」と、思ってもいないようなことをエラそうに口にして逃げ回った。

だがよくよく考えてみれば、連れのいないバックパッカーの一人旅でもカメラを持っていかなかったのだから、そのクチカラデマカセも、まんざらウソではなかったのかもしれない。

おそらく当時の私にとって写真は、「(以前のエントリーで述べたような)視座を写すもの」ではなく、「情報を記録するもの」でしかなかったのだろう。視覚的情報を記録に残すことにそれほど興味がなかったし、実物は写真以上だといつも思っていた。

先日久しぶりに、かつて約8年半住んだ鎌倉に撮影に行った。当時は写真を撮らなかったのだが、いま行ってみると、「あのとき自分はいったい何を見ていたのだろう」と思ってしまうほど、自分の視点が大きく変わっていたことに驚いた。いつのまにか視点が「写真的」になっていたのだ。何を見ても新鮮だった。

とりわけ私がそのように思ったのは、鎌倉の、神社仏閣といったいわゆるフォトジェニックな場所に行ったときではなく、当時住んでいた家の近所の路地裏に差し込む光や、裏山の木々の影、鎌倉独特の湿っぽい空氣などを見たり感じたりしたときだった。

それらは、世界中どこへ行ってもその街その街に、鎌倉とはまたべつなかたちであるもので、ユニークではあるがなんら特別なものではない。そういうものに氣付けるようになったことが、写真をやっていてよかったと思うことの一つであるし、いまは旅にカメラを持っていきたいと思えるようになった理由なのかもしれない。

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2012年1月19日 (木)

標準レンズ

「標準レンズ」とは、一般には、35判の50ミリレンズを指す(50ミリという焦点距離をなぜ「標準 (standard)」と呼ぶかは諸説あるが、個人的には、そう呼ばれ始めた当時、技術的につくりやすい焦点距離だったからという説をとる)。

しかし、私の個人的な標準レンズは35ミリだ。それは、初めて自分の意志でほしいと思って買ったレンズが35ミリだったから。それがもし50ミリだったら50ミリが、28ミリだったら28ミリがおそらく自分にとっての標準レンズになっていたはずだ。

そのレンズをある期間、四六時中肌身離さず持ち歩き、徹底的に使っていたものだから(そして今でももっとも多用している)、絞りによってどう描写が変化するかとか、このフィルムのときはこういう使い方をするのがいいとか、道具の個性が経験値として身に付いている。

今でも様々なレンズを使うとき、写りの傾向を常にその「標準レンズ」と較べてしまう。ほかのレンズで撮ったフィルムを現像し、タンクから出してクリップに吊るすとき、まだ濡れているネガを見ながら、自分の標準レンズに較べてコントラストが高いとか低いとか解像感がどうとか考える。そういう意味では、「標準」というより、「基準レンズ」に近い。

ところが、これだけ使っていてもなお、そのレンズを使いこなせている実感がない。いまでも撮るたびに新しい発見と驚き(ネガティヴなものも含めて)がたくさんある。不自由を感じる場面の連続。しかし、だからもっと使ってみようという氣になるのも確かだ。

これだけ次々と新製品が出てくる今日ではあるが、何か一つの道具をとことん使ってみて、それを身体感覚として自分のなかで「標準化」することは、大切なことかもしれない。むしろ、移り変わりが早いがゆえに、自分のなかに基準を持つと言うべきだろうか。なぜなら、基準があれば、新しい道具にも自分なりの使い方で対応できるからだ。

自分ではいまだ使いこなせている感のない標準レンズではあるが、使い続けることで「作風」ができていると言ってくれる人もいる。万能な道具などこの世にない。だからこそ、その不自由さをいい意味で諦め、工夫し、積極的に楽しむ。そういう前向きさが作品にも反映されると思う。

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2012年1月15日 (日)

手間

子どもの頃から大学を卒業するまで私は、適性に反して運動をたくさんやった。水泳、陸上、野球、スキー、バレーボール、空手等々を文字通り休日返上でやった。全体の練習時間外に筋力トレーニングなどもした(しかしそこまでやっても、生まれもって適性がある連中にはとうてい敵わなかった)。

そんなことをあまりにも長い間やったせいだろう。今でもものづくりのとき、そこに「肉体的感覚」が伴わなかったり、小手先でできてしまうと、どこかウソっぽくないか、表面的ではないかと疑ってしまうところがある。

先日仕事仲間と、この時代にフィルムを使っている人はどういう人かという話題になった。銀塩写真のトーンが好きとかいうのももちろんだが、暗室作業も含めた銀塩写真をつくるプロセスそのものが好きな人が多いのではという結論に至った。

私の周囲の、あっさりデジタル100%に移行した写真家の何割かは、よくよく話を聞くと、銀塩写真は好きだが、そのプロセスが別に好きなわけではない、あるいは面倒くさいと思っていたりする。

フィルムを装填する、マニュアルで露出と焦点を合わせる、露光する、フィルムを取り出す、現像する、薬品を用意してプリントする、水洗する、乾燥する、プレスする等々、すべての作業がいちいち「肉体的(physical)」だ。自分の身体を使い、扱うものもデータではなくリアルな現物。人によっては面倒くさいと感じるこのプロセスすべてを私は、幸か不幸か、心底楽しいと感じることができる。

と同時に、その楽しさと同等かそれ以上の強さで、銀塩写真の「肉体的感覚」に私は、価値を見出している。手を動かす、直に触れる、手を汚す。この感覚を、私がものづくりにおいてどれほど大切にしているか、フィルムや薬品が店の棚から減っていけばいくほど、氣づかされている。

素材を吟味し、適切な手間をかけてつくる料理が人の心を大きく動かす料理になり得るのとまったく同じ理由で、上記のような手間が、人の心を動かす写真につながるのだと、私は単純に信じている。

誤解してほしくないのは、フィルムならできて、デジタルだとできないという話をしているつもりはないということ。手法がなんであれ、作者が自らの身体を動かし、手を汚し、手間をかけていく過程で、脳の表面だけ使ってつくったものにはない「何か」が少しずつ、作品に宿っていくのだと感じているだけである。

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2012年1月14日 (土)

プリントは料理

音楽家から写真家に転向したアンセル・アダムスは、「ネガは楽譜、プリントは演奏」と言ったそうだが、私は、「ネガは食材、プリントは料理」だとも感じている。

食材には賞味期限があり、料理はつくった先から劣化が始めるという点において、写真とは大きく異なるのだが、食材を吟味し、それを活かすように手際よく調理するというプロセスは、ネガを吟味し、それを活かすようちゃちゃっとプリントをするのによく似ている。

私はコンタクトシート(ベタ焼き)をほとんどつくらない。ネガをじっと眺めていると、キザな言い方を許してもらえるのなら、ネガのほうからこうプリントしてほしいと語りかけてくる。コンタクトシートに頼りすぎると、ネガの語る言葉を聞き逃しやすい。

長年料理をしていると素材のよしあしが手に取っただけで分かるようになるように、ネガも、コンタクトシートなしによしあしを読み取る訓練をすれば、それなりに分かるようになる。

デジタルは解像度において情報量が豊富だが、ネガは、ラチチュードという情報量において、デジタルを圧倒する。それを生かすも殺すも、料理人の腕次第。

ちなみに私は、料理は毎日しているし好きではあるが、決して上手とは言えない。料理上手なら人生がもっと豊かになるだろうにとよく思うのだが。

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2012年1月11日 (水)

旅写真

このブログの読者ならきっと、旅行に行くといつもより余計に写真を撮りたくなるということを経験したことがあるはずだ。おそらくその現象の背後には、初めて見るものを記憶したがる脳の働きを、カメラを使ってより確実に遂行させようとする力が無意識に作用していたりするのだろう。

人によってはそこに、帰ってから周囲に見せたいという想いが加わるし、さらには、「自慢したい」とか「いい写真だねと褒めてもらいたい」といった欲が加わる場合もあるかもしれない。

ところで、世界中のありとあらゆる土地の写真や映像を既に見てしまっている我々現代人にとって、それでもなお心惹かれる旅写真とは、いったいどんな写真なのだろう。そんなものが今でも存在して、それを我々はまだつくり得るのだろうか。

このような疑問に答えてくれるかもしれない参考意見を、幾分古い雑誌の記事からの抜粋ではあるが、紹介したい。

「写真家というものは、実際には私たちごく普通の旅行者のような写真の撮り方はしない。(中略)写真家は彼らの知っていることや身近な現実を写真に写し取っているのであって、いわゆる旅行者がこれはチャンスだ!と思うような、エキゾチックだったりいかにも異国風だったりするものを文化的興味で撮っているわけではない。旅行者というものは自分にとって初めて見る新鮮なものを見つけただけで、それが美しいものだと思い込んでしまうものだ。だから、思ったままの美しさを捉えるために写真に残す。

しかし、写真家は確かにたくさんの旅をするが、その旅は決して新しい場所を見つける旅でも、変わった場所を見つける旅でも、未知なる場所を見つける旅でも、美しい場所を見つける旅でもない。彼らの旅は、ただ単に、一人ぼっちになって、風景やビル、人々の写真が映し出してくれる『私的なものの見方』を見つけ出すためにあるからだ。」(オリヴィエ・ザム = キュレーター、「Purple Fashion」編集長、月間エスクアイア日本版2005年2月号より)

やや翻訳に難があるが、要約すれば、普通の旅行者は、旅先で目に入ってきた珍しいものや目新しい風景を、見たまま思ったままに残すために写真を撮るが、写真家は、世界中どこへ行こうと、彼(または彼女)の「ものの見方」を写真によって示そうとする、ということだ。旅行者は「対象」を写し、写真家は「視座」を写す、と言い換えてもいいだろう。

以前、先輩写真家が、旅に出てもしばらくは写真を撮らず、その街に飽きてきた頃に撮る、と言っていた。はじめはその理由が分からなかったのだが、今ならよく分かる。

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2012年1月 9日 (月)

フォーマット

皆がデジタルカメラを使うようになり、日本では携帯電話も合わせたら1人に1台以上カメラが行き渡ったと思われる今日だが、我々写真をやる者の不幸は、フィルムの衰退以上に、フォーマットの選択肢の少なさにあるのではないかと感じ始めている。

数年前、まだフィルムカメラがデジタルカメラよりも多かった頃、フォーマットは多彩だった。8x10、4x5、中判、35、APS等々。それらの大半はいまもあることはあるし、中判のデジタルカメラもないわけではないが、カメラ市場は35サイズ以下のセンサーを積んだデジタルカメラで実質的に独占されている。

ところで、写真のフレーミングを学ぶとき、縦位置の場合、横位置の場合、正方形の場合、あるいは広角の場合、望遠の場合といったタイプ別で学ぶのが一般的かと思う。

また、画角が同じ(たとえば50mm相当レンズ)なら、センサーやフィルムの大小に関わらず同じように撮るというのが従来の手法だ。

ところが、私がこれまで様々なセンサーサイズのデジタルカメラを使ってみて、あるとき「画になるはずの写真が画にならない」という場面に集中的に出くわした時期があった。

当初それは画素数による解像度の違いが原因なのかと思ったが、状況を分析してみると、どうやら画素数に関係なく、センサーが小さいデジタルカメラで撮ったとき、その傾向が強いことが分かった。

振り返ってみればフィルムでも同様で、大きいフィルムで成立する写真が、小さいフィルムでは成立しづらいことが多々ある。その逆に、小さいセンサーで面白い写真が撮れる場面が、大きいセンサーでは撮りづらいというケースもないわけではない。

そこで私が考えた仮説は、「フォーマット(フィルムやセンサー)の大きさに応じて撮り方を変えなくてはならないのではないか」というものだ。縦横正方形や画角による使い分けは、その後の話。

この仮説をふまえて、たとえばFlickrで、中判と35判の両方で撮っている人の作品を見ると、同じ作者なのにフォーマットによって写真から受ける印象が違うことが、かなりの割合で説明できる。

私が行っている写真ワークショップでは、「フォーマット(の大小)によって撮るときの意識を変える」というところからスタートしている。

しかし、参加者の作品を見ると「この人は大判向きかも」「中判を使ってみたらもっと個性が伸ばせるかも」という人がけっこうな数いるのにも関わらず、彼らが現実的に使えるカメラが、35判以下のセンサーを搭載したデジタルカメラにほぼ限られるのが現状だ。

コストと不便を覚悟で半ば強引に彼らに大きいフォーマットのフィルムカメラを使わせるべきかどうか、悩むところである。もちろん彼らの写真にたいする「覚悟」の大小次第なのだが。

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2012年1月 6日 (金)

創造性

創造性というものについて、おそらく私はふつうの人より多くの時間を割いて考え、自分のものにしようと努力しているつもりだが、それでもそれがどんなものか正直言ってよく分からない。インスピレーションと呼ばれるものがどこから来るのかも、まったく分からない。

「創造性とは、いったい何でしょうか。人間の思考にこれほど重要で、人類の歴史にとってこれほど決定的で、ほとんど例外なく誰もが評価していながら、これほどとらえにくい概念もないでしょう」(「内なる画家の眼」 B.エドワーズ著、北村孝一訳)

殊に写真に関しては、目の前のものを複写するというその性質上、はたしてそれが創造的行為なのか、今もって確信を得たことがない。

私は作曲家でもあるのだが、曲をつくる作業の大半は、先人がつくった技法(たとえば和音の使い方)の上に成り立っている。

それでも、写真なら「誰も見たことのないイメージ」をつくろうと常に思っているし、音楽なら「誰も聴いたことのない音」をつくろうとしている。だが、どうやったらそのような「創造的な」仕事が常にできるか、方程式はやればやるほど見つからなくなる。

テクノロジーの進歩で、誰もが簡単に写真を撮れるようになった。押せば写るカメラで撮ってネットで公開したりすると、なんとなくクリエイターになったつもりになる。手軽さを否定するつもりはないが、その「手を汚さずして描いた画」は、はたしてクリエイティヴなのだろうか。クリエイティヴな写真とは何か、毎日自問している。

「耳で考える」(角川書店)の中で、スタッフのモチベーションが下がって困るという久石譲さんに対し、養老孟司さんが以下のように言っている。

「久石さんは(作曲で)『情報化』をしているわけですが、スタッフの人たちは『情報処理』をしている。その違いが根本的な姿勢の違いになっているんですよ。」

「今の人はよく『クリエイティブな仕事をしたい』とか言う。そのわりにはみんな情報処理ばかりしている。(中略)自分で考え出す、自分でつくり出すということをしません。情報処理がどんなに上手になっても、情報化ができるようになるわけじゃない。」

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2012年1月 3日 (火)

焦点

写真の本質は「to focus(= 焦点を合わせること、的を絞ること)」にあると思う。

1枚の写真をつくる(写真は「撮る」だけではない)プロセスには、多くの要素が含まれる。

テーマを決める、被写体を選ぶ、機材を選ぶ、明かりをつくる、絞りとシャッタースピードを決める、フレーミングをする、ピントを合わせる、現像する、プリントする、、、等々。

写真家が焦点を合わせるのは、いわゆるピント合わせだけに限らない。写真家は写真づくりの行程すべてにおいて、何に「焦点を合わせ」、何を「焦点から外すか」を自らの意思と責任において決定する。

たとえば機材を選ぶ際は、撮影の目的に焦点を合わせて機材を選ぶし、プリントするときだって、主題に見る人の焦点が行くよう、ネガを選び、焼き込んだりもする。そもそもテーマを持つということさえ、その写真家が世界のどこに焦点を合わせようとしているかという意思表示と言ってよい。

写真はよく「選択の芸術」と言われるが、ここでいう選択とは、何にfocusし、何にfocusしないかという「焦点の選択」なのである。

このような理由から、当ウェブログのタイトルを「焦点:」とした。ここでは、ツイッターの140文字ではこぼれ落ちてしまう思考の断片を、言葉にしてみたいと思っている。

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