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2012年1月20日 (金)

旅でカメラを持つ理由

いまでは想像もつかないことだが、人生のある時点まで私は写真をほとんど撮らなかった。とくに友人たちと旅行に行くときなど、ぜったいにカメラを持っていかなかった。

実はそれには理由があって、まだみんながカメラを持っていなかった時代、カメラを持っているというだけで、記念写真を行く先々で撮らされ、それを帰ってからDPEに出して人数分「焼き増し」をつくって配るというボランティアを暗に押し付けられることに、無精な自分は耐えられなかったからだ。しかもそのうち、「あのときの写真、はやく見たいなあ」などとプレッシャーをかけられたりして、善意でやっているはずなのに「ごめん、もうちょっと待ってて」などと立場が逆転したりしたから困った。

損な役割が私にまわってこないよう、大義名分として「何を見るかより、何を感じ、何を考えるかの方が大切だから、あえて旅にカメラを持っていかない」と、思ってもいないようなことをエラそうに口にして逃げ回った。

だがよくよく考えてみれば、連れのいないバックパッカーの一人旅でもカメラを持っていかなかったのだから、そのクチカラデマカセも、まんざらウソではなかったのかもしれない。

おそらく当時の私にとって写真は、「(以前のエントリーで述べたような)視座を写すもの」ではなく、「情報を記録するもの」でしかなかったのだろう。視覚的情報を記録に残すことにそれほど興味がなかったし、実物は写真以上だといつも思っていた。

先日久しぶりに、かつて約8年半住んだ鎌倉に撮影に行った。当時は写真を撮らなかったのだが、いま行ってみると、「あのとき自分はいったい何を見ていたのだろう」と思ってしまうほど、自分の視点が大きく変わっていたことに驚いた。いつのまにか視点が「写真的」になっていたのだ。何を見ても新鮮だった。

とりわけ私がそのように思ったのは、鎌倉の、神社仏閣といったいわゆるフォトジェニックな場所に行ったときではなく、当時住んでいた家の近所の路地裏に差し込む光や、裏山の木々の影、鎌倉独特の湿っぽい空氣などを見たり感じたりしたときだった。

それらは、世界中どこへ行ってもその街その街に、鎌倉とはまたべつなかたちであるもので、ユニークではあるがなんら特別なものではない。そういうものに氣付けるようになったことが、写真をやっていてよかったと思うことの一つであるし、いまは旅にカメラを持っていきたいと思えるようになった理由なのかもしれない。

Tokyo009

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