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2012年1月15日 (日)

手間

子どもの頃から大学を卒業するまで私は、適性に反して運動をたくさんやった。水泳、陸上、野球、スキー、バレーボール、空手等々を文字通り休日返上でやった。全体の練習時間外に筋力トレーニングなどもした(しかしそこまでやっても、生まれもって適性がある連中にはとうてい敵わなかった)。

そんなことをあまりにも長い間やったせいだろう。今でもものづくりのとき、そこに「肉体的感覚」が伴わなかったり、小手先でできてしまうと、どこかウソっぽくないか、表面的ではないかと疑ってしまうところがある。

先日仕事仲間と、この時代にフィルムを使っている人はどういう人かという話題になった。銀塩写真のトーンが好きとかいうのももちろんだが、暗室作業も含めた銀塩写真をつくるプロセスそのものが好きな人が多いのではという結論に至った。

私の周囲の、あっさりデジタル100%に移行した写真家の何割かは、よくよく話を聞くと、銀塩写真は好きだが、そのプロセスが別に好きなわけではない、あるいは面倒くさいと思っていたりする。

フィルムを装填する、マニュアルで露出と焦点を合わせる、露光する、フィルムを取り出す、現像する、薬品を用意してプリントする、水洗する、乾燥する、プレスする等々、すべての作業がいちいち「肉体的(physical)」だ。自分の身体を使い、扱うものもデータではなくリアルな現物。人によっては面倒くさいと感じるこのプロセスすべてを私は、幸か不幸か、心底楽しいと感じることができる。

と同時に、その楽しさと同等かそれ以上の強さで、銀塩写真の「肉体的感覚」に私は、価値を見出している。手を動かす、直に触れる、手を汚す。この感覚を、私がものづくりにおいてどれほど大切にしているか、フィルムや薬品が店の棚から減っていけばいくほど、氣づかされている。

素材を吟味し、適切な手間をかけてつくる料理が人の心を大きく動かす料理になり得るのとまったく同じ理由で、上記のような手間が、人の心を動かす写真につながるのだと、私は単純に信じている。

誤解してほしくないのは、フィルムならできて、デジタルだとできないという話をしているつもりはないということ。手法がなんであれ、作者が自らの身体を動かし、手を汚し、手間をかけていく過程で、脳の表面だけ使ってつくったものにはない「何か」が少しずつ、作品に宿っていくのだと感じているだけである。

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