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2012年2月 5日 (日)

人を撮ること

本格的に写真を撮るようになったばかりの頃、カルティエ=ブレッソン、木村伊兵衛両氏のパリの写真や、土門拳氏の昭和少年少女の写真らを目標に、見知らぬ人々のいわゆる決定的瞬間スナップばかりを狙っていた。彼らの面白い表情や動作をフィルムに収めることができるかどうか、それをいかに画にすることがきるかが、大きな目標だった。

しかし、あるときからそういう写真への興味が急速に失せていった。

それは、あるきっかけで(これについては機会があれば述べてみたい)あらためて自分が撮ったそのようなイメージを客観的に見たとき、被写体への感動や共感が希薄で、「面白い」、「画になっている」以外なんら魅力がなく、自分が「作品として」そのような写真を撮る意味が、まったく感じられなかったからだ。とくにそれをプリントにしたとき、自分のプライベートな空間に飾りたいか、自分がギャラリーの客ならそれを購入したいかと自らに問うたとき、答えは明白であった。

だからといって、上記の巨匠への評価が変わったのかと言えば決してそうではない。むしろ自分が撮れなくなった分、彼らへのリスペクとが増したと言ってもいい。あくまで私個人が撮り手として、そういう写真を撮り続ける意義が感じられなくなったということである。

私がネットで人物写真をあまり公表しないことには、肖像権や契約上の制限もあるのだが、それと同程度に、このような背景がある。

その後年月も流れ、個人的な生活においても社会においても大きな変化がいくつかあり、私の考えも変わってきた。一度歌わなくなった歌手がやはり歌を諦めきれないように私も再び、人が撮りたいと強く願うようになってきた。だがそれは、見知らぬ人のスナップではなく、家族や友人、あるいは私が撮りたいと願う人、または私に撮ってほしいと願う人の写真である。

子どもを持ち、さらには311を経て、写真というものの位置づけが、自分のなかでシフトした。アートあるいは表現としての写真だけでなく、想い出を美しく定着させるための写真というものが、少しずつ大きな意味を持つようになってきたのだ。

震災で家族を失った友人もいるし、瓦礫から出てきた写真を洗浄するボランティアをする写真仲間もいる。彼らにとって、震災を経て残った写真は、特別な意味を持つ。印画紙に定着したイメージが美しければ美しいほど、記憶も美しいものとして想い出されるだろう。

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