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2012年2月 7日 (火)

徹底したリアリズム

昨年末の「紅白」を観たある人が、その震災がらみの感情的な演出に、2012年に必用なのはそのような「過剰なセンチメンタリズム」ではなく「徹底したリアリズム」なのではないかと語っていたのが、ずっと頭から離れない。彼はきっと、復興支援のあり方なども含めてそうコメントしたのだと思うが、ここでは、ものづくりに限って考えてみたい。

情報に人がお金を払わなくなってきて久しい。その代わり、「体験」に人はちゃんとお金を使う。

たとえば、CDは売れなくなってきているが、コンサートに人はお金を払って行く。情報誌(多くのカメラ雑誌を含む)は売れなくなってきているが、登場人物を疑似体験できる小説やマンガは(以前ほどではないにせよ)売れている。

一説によると、たとえばコンサートに行くとき人は、ある特定の感情を味わいたくて、そのためにお金を払ってまで行くのだという。確かにそうだ。好きなミュージシャンのコンサートに行くときは、お氣に入りの曲を聴いたときに感じる特定の感情を、生演奏で、よりリアルに、体全体で感じたくて行くだろう。

だが、つくる側(体験を提供する側)がそれを狙いすぎると、人に感情体験させることを目的にしすぎると、かえって人の心が離れてしまうことがある。そうさせないヒントが、「徹底したリアリズム」にあるのではないかと直感している。

我々は同じような生活をして、同じような現実を共有しているようで、実は「リアル」だと感じることは人によって少しずつ異なる。ネットコミュニティの多様さを挙げるまでもなく、集団で一つの共通リアリティを持つなどということは、今日においては不可能だろう。

だからこそ、自分自身とって何がリアルかを自覚し、それを受け入れ、できるだけ生き生きと、あるいは生々しくかたちにする。しかも徹底的に。そして、もしそれを必用とする人がいるならば、できるだけ直接的にその人へ届け、共有する、そんなことが大切なのではないか。非常に抽象的ではあるが、そう感じている。

今年は、2月〜4月にかけて、作品を発表する機会が多くある。そのとき、どれだけ(自らの)リアリズムに徹することができるか、自分自身への挑戦だ。

Tokyo03

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