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2012年2月 8日 (水)

写真と音楽(1)

3月15日に南青山マンダラで、フォトジャーナリストの佐藤慧さんとライヴを行うのだが、その準備を少しずつ進めている。

ご存知ない読者の方も多いと思うが、私は写真家よりも音楽家としてのキャリアのほうが実は長い(ちなみに佐藤慧さんは大学で音楽を専攻していた)。ずっと音楽と写真を別物として取り組んできたのだが、試行錯誤の末、ここ1、2年でようやく違和感なく一緒にできるようになった。

「一緒にできる」というのには、つくる過程や表現方法が似てきたということが一つと、スライドショーなどのかたちで一緒にみせる/聴かせるということが可能になったという、二つのことがあるが、今回は後者について述べてみたい(前者についてはまた後日)。

一緒に提示できるようになった背景には、音楽と写真、それぞれが互いを助け合うための条件というものを、経験則として少しずつ身に付けてきたということがある。

その条件とは、簡単にいえば、一方が「語りすぎない」ということだ。

たとえば、音楽の構成要素には、リズム、メロディ、ハーモニーがあると一般にいわれるが、そのなかでもっとも「語る」のがメロディだ。

リズムとハーモニーは、全体の雰囲氣、モードをつくりだすが、メロディは、語ることでそれに「意味付け」する力を持っている。それは、メロディというものが、人間の話し言葉に近いことと大きく関係しているだろう。

写真には写真の語りたいこと、意味がある。しかし、それとは別な言葉を音楽が語り、別な意味付けをしてしまうと、双方がちぐはぐな印象を与えてしまう。言い換えれば、写真がしゃべるつもりじゃなかったようなことまで、おしゃべりなメロディが勘違いしてぺらぺらしゃべってしまうというようなことだ。

それゆえ、写真と一緒に使う音楽は、適度に無口、つまりメロディアスでない、抽象的なほうが扱いやすい。または、具体的なメロディを使いたいのであれば、その言葉を、写真が語りたい言葉とある程度一緒にさせる必用がある。あるいは、音楽が具体的な分、写真のほうを抽象的にするのがセオリーだ。

ところが、だからといって、一方を抽象的にさえすればそれでいいかといえば決してそうとも限らない。そこはある程度の数をこなして、写真と音楽が一致する感覚を経験的に身につけるしかない。法則はあくまで法則であって、人に感動を与えるようなものはえてして、法則からはみ出るようなものであったりするものだ。

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