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2012年3月

2012年3月29日 (木)

意識を向ける

写真ワークショップを昨年秋からやっている。修了しても何か資格が与えられるわけでもない、独自の写真観にもとづいて組まれた3ヶ月で6回のプログラム(あるいは短期で2日間集中というのも行った)を比較的少人数でやっている。

毎回、次回までの宿題を出すのだが、参加者は皆必死にやってきてくれる。その結果、写真に何らかの変化が現れる。ある人はなだらかに(あるいは螺旋状に)、またある人は急激にその写真を変化させる。

もうかなりの写真が撮れている人の安定した作品は他の参加者の手本や刺激になるし、彼らもいわゆる初心者にアドバイスすることで何かを学ぶ。そのように参加者どうしが影響しあえるのが、グループワークの最大のメリット。

私のワークショップは必ずしも何かの技術を学ぶものではない。その中身を要約すれば、「意識していなかったものに意識を向ける」、それに尽きるであろう。

多くの人は、何かに意識を向けるだけで、もしそこに欲しいものを見つければ、もっと求めようとするし、仮に問題に氣づけば、自分でそれを解決するように動く。

不思議なことに、プログラムを信じてコミットしてくれる参加者は、「プリントの密度」が回を重ねるごとに少しずつ濃くなっていく。テーマ性が濃くなるだけでなく、同じプリンターを使っているはずなのに、プリントそのものの質が変化していくプロセスは、傍で見ていて感動さえする。

プログラムを終えた参加者は、その後3ヶ月の作品制作期間与えられ、「修了作品」をウェブで公開することになっている。

昨年末に終えた第1期の参加者の作品が、少しずつ私の元に届いているが、どれも力作だ。それらは4月に公開予定(現在、4月から始まる第3期参加者募集中)。

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2012年3月21日 (水)

視座

写真展に、通りがかりのご夫婦が来てくださった。

ブロンドヘアの淑女が、私の撮った蓮や水たまりのプリントを指し、これらが好きだと言ってくださった。ヨーロッパで働いているとおっしゃる紳士が彼女を指し「家内も写真やってるんだけど、撮るのが壁のシミとかなんだよ。私にはちっとも分からない」とおっしゃった。

どういうことなんでしょうねという紳士に、私は少し考えてから、こういうことを言った。

「写真家は、モノではなく、視座を写すからではないでしょうか。」

写真家が写真に残すものは、被写体そのものではなく、その被写体を彼/彼女がどう見ているのか、カメラやレンズを通してそれをフレームの中でどう見たいのか、そういう「視座」なのではないか。

美しい花を見たとき、その花をフレームの中でどのように見て、どうcomposeし、どういう色で再現すればその感動を他人に伝えることができるか、それを視覚的・具体的に写真をもって提示できるのが写真家なのではないか。

また、上記の淑女の撮る壁のシミのような、一般には美しいと思えない被写体が、写真家による新しいユニークな視座を与えられることによって、美しいものへと昇華する。これも写真家の役割なのではないか。

かつてウォルフガング・ティルマンスが、写真家の役割は世界の再定義だと言っていたが、それは、美じゃないものに写真家が新たな視座という別な定義を与えることで美へと昇華させる、そんな意味合いも含まれているのではないだろうか。

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2012年3月11日 (日)

あれから

1年経った。

起きた直後、大いに悩んだ。自分に何ができるのかと。

とにかくやれることをやろうと、わずかではあるが募金やボランティアをし、チャリティイベントに参加したり企画したりしたが、自分に本当の意味でのお役目あるとしたら、それは違うところにあるのではないか、そんなことを感じながらやっていた。

さんざん考えて、自分なりに出した結論は、被災地の方々をはじめ、理不尽な境遇、辛さを経験された方が、人生のどこかのタイミングで、たまたま何かの偶然で私の作品に触れる機会があったとき、その方の魂に寄り添い、その傷に深く共感することができる、そんな作品を一つでも多くつくる、というものだった。

なかなかそのお役目を全うすることはできないが、その想いに今も変わりはない。

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