« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2012年5月

2012年5月17日 (木)

シェア

今回は写真やものづくりの話からちょっと離れる。

自称「日本を代表するイクメンフォトグラファー」である私は、子どものための(子どもとの)時間を、世の一般的なサラリーマン父親より割いていると思う。

様々な言語を話す人が暮らす地域に住んでいるので、近所の公園などで遊んでいると、よく日本語以外の言葉が飛び交っている。

他の言語だとどうなのかは分からないが、少なくとも英語を話す親やシッターたち(母語が英語でなくても教育目的で英語を話す人も多いようだ)が子どもに向かって話している内容に耳を向けると、よく「シェア(share)」という言葉を使う。

近年になって日本でもレストランなどで、料理を皆で「シェアする」と言ったりする、その「分け合う」という意味の「シェア」である

その英語を話す親やシッターたちは、子どもたちがおもちゃの取り合いになったりすると「シェアしなさい」と言う。何かを食べるときも、兄弟で「シェアしなさい」。イスが足りないとき、一つのイスを友だちと「シェアしなさい」。

他方、日本の教育ビデオなどを息子と観ていると、「みんなでなかよく」「みんないっしょに」「はんぶんこ」などの言葉が多く出てくる。最近は以前ほど聞かないが、「がまんしなさい」という言葉もよく使う。

これらは、「シェア」と似ているようで、ちょっと違う。シェアすることの中心にあるのは、あくまで「限られたものを複数の人と分け合う」ということであって、そのためには必ずしも仲良しでなくてもいいし、分け前が全員同じ量とも限らないし、がまんはしてもあきらめる必用はとくにない。

昨日、大学時代の恩師の葬儀に参列した。スペイン人のM先生には、インドとフィリピンのスラムやストリートに住む子どもたちに教育の機会を与えるという学生NGOでお世話になった。

その、先生が発起人になってつくったNGOの基本理念が「シェア」である。

日本に住み、教育を含め、ありとあらゆるものをあたりまえのものとして享受している我々が、アジアのいわゆる最貧層の子どもたちとシェアできるものは、たくさんある。よくいうギブアンドテイクではなく、シェア。

敬虔なカトリックの大家族で育った先生は、シェアするということがどういうことかを母親から学んだという。

歳をとるごとに、先生の教えが、じわりじわりと心の中で現実味を帯びてくる。

_1116642

(c) all rights reserved

|

2012年5月 9日 (水)

作家性

先日、4月に修了作を公開した写真ワークショップ第1期のメンバーほぼ全員と「打ち上げ」と称して食事をした。

完全に制作のことを忘れて飲むのかと思って日本橋のバーに行ったら、一人ひとりの作品について何か一言欲しいとのこと。

思えば、参加者の作品についてなら、もしかしたら自分の作品について以上に語れてしまうかもしれないほど、半年間で写真というものを介して皆と多くを共有した。

そして、全員のなかに共通して、ある種の「作家性」が芽生えたことがうれしく、またそのことを誇りに感じている。

ところで、日本のアート界で「表現」あるいは「作家」について語るとき、西洋以上に、「抑圧からの開放」的な要素が、多分についてまわることを以前から感じている。つまり、作家たるもの苦労すべし、制作はその苦悩を原動力にすべし、といった図式だ。

それは、それだけ日本社会が抑圧されているからとも言えるだろうし、ベートーヴェンやゴッホのような苦労話を西洋芸術を輸入したとき同時に輸入したせいでもあるだろうし、単なる分かりやすい思考パターンとも言える。

またそれとは正反対に(あるいはその「苦労コンプレックス」の裏返しとして)、とにかく「明るく」なければいけないという強迫観念を強く抱いている作家も少なくない。

しかし、私がワークショップ参加者の内側に感じたのは、それらと必ずしも関係ない作家性だ。

写真という制限あるメディアのなかで、自らの好みにできるだけ忠実に、テーマ性を考え、それぞれの美意識をもって制作する。自分は何に惹かれるのか、何を美しいと感じるのか、そんなことを常に意識して写真と向き合う。その結果ぼんやりと現れてくる、一人ひとり異なったものづくりの姿勢。

先日集まったメンバーは、おそらくこれからも写真を撮り続けるだろう。ワークショップで培ったその作家性の芽を、これからの長い写真ライフの中で、ある人は小さくても可憐な花に、ある人は青々と葉の茂る大木に、その人なりのスケールで育てていってほしい。

_0011187

(c) all rights reserved

|

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »