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2012年6月

2012年6月25日 (月)

変化と段階

写真ワークショップの第3期が終わった。自分で勝手に設定しておいて言うのもなんだが、3ヶ月は短い。個性が出てきたところで終わってしまう。でも、ここから先は、グループでやれることにも限界が出てくる。どんどん個々の作品に入っていくからだ。

3ヶ月のワークショップのなかでは、その写真を大きく変化させる人もいれば、そうでもない人もいる。

変化の大きい参加者は、写真を本格的に始めてまだそれほど時間が経っていなくて、しかも写真にたいして好奇心が強い人が多い。その変化は本当に劇的で、傍で見ていて感動さえする。

一方、すでに自分自身の「文体」を持って参加してくる人は、あまり変化しない(私も無理に変えるつもりがない)が、写真にたいする見方を深め、文体を洗練させ、個性に確信を持ってもらうお手伝いができたらと思ってやっている。

変化の大小は、さほど問題ではない。それぞれの段階があるからだ。問題になるのは、(その段階に応じて)どれだけ自分自身がつくりたい写真をつくれるようになっているか、である。

第3期の最終回には、ゲストに尊敬する先輩である小原孝博さんをお呼びして、講評していただいた。小原さんは「すごい」「やられた」「負けた」を連発していた。もちろん、客観的にみて小原さんが負けているわけはないのだが、そう思わせるだけのインパクト、個性のある作品があったということだ。

私自身も、毎回参加者の作品を見て、「これはぜったいに真似できない」と感じることが多々ある。それこそが個性であり才能である。そしてそれを見て私も、もっともっと自分の技を磨いていこうと思うのである。

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2012年6月 6日 (水)

写真に写るもの(1)

ウォルフガング・ティルマンス(写真家 1968〜)が、雑誌「BRUTUS」の2004/8/15号で、以下のように語っている。

「写真は技術的なだけではなく、心理的なメディアだ。(中略)もしも、誰かが僕のような写真を撮りたいとするとそこには、僕のような写真を撮りたいという『欲望』が見えてくる。それが、その写真の語っているところで、その写真はまったく僕の写真のようではない。」

要約すれば、「ティルマンスのように撮ろう」として撮ると、ティルマンスのように撮れるわけではなく、「ティルマンスのように撮ろうとしている私」が、写真には写るというのである。

写真を撮り始める動機は人それぞれであろうが、はじめは何を撮っても楽しかったのが、あるときから「上手に撮ろう」とか「人に褒めてほしい」と思うようになり、次第に「何を撮っていいか分からない」となる人が、けっこうな割合でいる。

これは「これを撮りたい(What)」の動機よりも、「こう撮りたい(How)」が上回ってしまう現象だ。

それでもまだ「こう撮りたい」と思える人はさいわいで、なかには本当に何を撮っていいか分からなくなる人がいる。

そういう人は、写真を撮る動機をもう一度見つめ直すべきだ。なぜなら、そういう状態のとき、たいていの人は「人の目にどう映るか」のために写真をやっているからだ。

これを撮りたい、こう撮りたいという感情以上に、「こんなにステキなものを撮っている私ってステキと他人に思ってほしい」のではないだろうか。そういうとき撮る写真には、残念ながらステキなものは写ってなくて、「人にステキだと思ってほしい私」が写っているのである。

写真を始めたばかりの人の写真が「強い」のは、本当に撮りたいものを楽しんで撮っていて、しかも他人にそれを見せることに躊躇がないからだ。幼い子が親に「みてみて!」と言うのと同じだ。しかし子どもはそのうち、親以外の者が、褒めてくれない、興味を示してくれない、「何それ」と冷たくあしらう、ということを経験するうちに、「みてみて!」と言うのをやめていく。

私は、作家になる素質の第一は、技術とか運以上に、いつまでもその「みてみて!」を続けられることなのではないかと密かに思っている。

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