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2012年6月 6日 (水)

写真に写るもの(1)

ウォルフガング・ティルマンス(写真家 1968〜)が、雑誌「BRUTUS」の2004/8/15号で、以下のように語っている。

「写真は技術的なだけではなく、心理的なメディアだ。(中略)もしも、誰かが僕のような写真を撮りたいとするとそこには、僕のような写真を撮りたいという『欲望』が見えてくる。それが、その写真の語っているところで、その写真はまったく僕の写真のようではない。」

要約すれば、「ティルマンスのように撮ろう」として撮ると、ティルマンスのように撮れるわけではなく、「ティルマンスのように撮ろうとしている私」が、写真には写るというのである。

写真を撮り始める動機は人それぞれであろうが、はじめは何を撮っても楽しかったのが、あるときから「上手に撮ろう」とか「人に褒めてほしい」と思うようになり、次第に「何を撮っていいか分からない」となる人が、けっこうな割合でいる。

これは「これを撮りたい(What)」の動機よりも、「こう撮りたい(How)」が上回ってしまう現象だ。

それでもまだ「こう撮りたい」と思える人はさいわいで、なかには本当に何を撮っていいか分からなくなる人がいる。

そういう人は、写真を撮る動機をもう一度見つめ直すべきだ。なぜなら、そういう状態のとき、たいていの人は「人の目にどう映るか」のために写真をやっているからだ。

これを撮りたい、こう撮りたいという感情以上に、「こんなにステキなものを撮っている私ってステキと他人に思ってほしい」のではないだろうか。そういうとき撮る写真には、残念ながらステキなものは写ってなくて、「人にステキだと思ってほしい私」が写っているのである。

写真を始めたばかりの人の写真が「強い」のは、本当に撮りたいものを楽しんで撮っていて、しかも他人にそれを見せることに躊躇がないからだ。幼い子が親に「みてみて!」と言うのと同じだ。しかし子どもはそのうち、親以外の者が、褒めてくれない、興味を示してくれない、「何それ」と冷たくあしらう、ということを経験するうちに、「みてみて!」と言うのをやめていく。

私は、作家になる素質の第一は、技術とか運以上に、いつまでもその「みてみて!」を続けられることなのではないかと密かに思っている。

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