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2012年8月

2012年8月22日 (水)

白で描く

白黒写真では、白をどう扱うかが、大切だ。

随分前のこと(たしかカメラさえ持っていなかった頃のこと)になるが、黒地の紙に白のパステルで画を描くということをしばらくやったことがある。それは通常と逆で、影の部分でなく、光の部分を塗るということだ。

我々は小さい頃からずっと、白い紙に黒い鉛筆などで描くのが普通だったはずだ。それは影の部分や輪郭を見つけて黒に置き換えるという作業だ。

それに慣れた我々が黒地に白で光の当たっているほうを描こうとすると、ちょっと違うふうに脳を使って、ちょっと違うものの見方をしなくてはならない。

ところで、日本語の「写真」にあたる英語「photograph」は、ギリシア語の

「phos = light」と

「graphe = drawing, writing」

が語源。

つまり「光で描いた画」。「光画」と言ってもいい。

上記のように、影を見て影を描くことに慣れている我々であるが、photographの語源のように、光で描くことを意識すると、写真が変わる。つまり、黒で描こうとするのではなく、白で描くということだ。

どうやったら白(つまり光)を使って黒(影)を見せる(魅せる)ことができるかをちょっと意識するだけで、白黒写真がぐっと力を持つ。

そのためには、撮るときに、またプリントするときに、しっかりと白を視なければならない。白を視て、白をしっかり描くことで、黒がいきいきとするのである。

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2012年8月20日 (月)

遠い花火

たぶん小学校低学年の、夏休みも終わりに近づいた頃のことである。

私の生家は、戦前に建てられた伝統的な様式の木造建築で、稲作の盛んな新潟平野の最南端に位置する小さな集落にある。西側には低い山々、東側には一面水田が広がっている。

その東側の広い水田地帯の向こうに、やはり南北になだらかに続く山々があって、人々はそれを東山と呼ぶ。

その遠い東山の中腹で、毎年この時期に小さな花火祭りがある。ちょうど叔母の誕生日と同じ日のため、私は幼い頃からこの花火祭りの存在を忘れることがなかった。

さて、その晩。当時の子どもは夜更かしを固く禁じられていたため、花火を見たい氣持ちを抑え、しぶしぶ蚊帳の中にある床に就いた。なかなか寝付けない私の耳に、遠くから花火の音が聞こえてきた。

いてもたってもいられず私は、誰にも氣づかれないようにそっと蚊帳の下から手だけを出し、うつ伏せのまま障子戸を開けた。

遠くの東の空を見ると、その低い位置に赤や青の小さな粒たちが、音もなく開いては消えていった。一瞬、東山がかすかに照らし出されては闇に消えた。そして、何秒も経った後、ぽん、ぽん、と夏の湿氣を帯びた音だけがした。

しばらく沈黙が続き、また別な小さな光の輪が無音で、開いては消えた。蚊帳を通して見るから、よけいに淡く見えた。

当時の私の語彙には「美しい」という言葉はなかったが、その闇の彼方に小さく開いては消えたおぼろげな無音の光と、遅れて届くやわらかな火薬の音と、間にある深い沈黙は、夏の終わりの、はかなくも美しい記憶である。

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2012年8月11日 (土)

花の写真と花のある写真〜写真に写るもの(2)

たとえば花をモチーフとした写真には、「花の写真」と「花のある写真」の2種類があって、その二つの間には、微妙だが決定的な溝がある。

「花の写真」が、花そのものの姿をリアルに写し取ったものだとすれば、「花のある写真」は、撮る者の視座を示した図である。

現代では、携帯電話のカメラで撮られる写真の大半が前者であろうし、パリフォトなどに並ぶコレクターが好む写真の多くが後者かもしれない。

たとえば、いわゆるネイチャーフォトと呼ばれる写真を撮る人は、前者を徹底的にやることを好み、いわゆるコンテンポラリー写真家は後者を追求する。よく両者が互いに「そんなの写真じゃない」と批判しあう姿を目にするが、それも当然だ。なぜなら、そもそも写真に求めるものが違うからである。

それゆえ、両者をごちゃごちゃに学んだり論じたりすると、混乱を招くおそれがあると思う。しかし実際には、ほとんど区別されていない。

今日活躍中の写真家で、後者のように見えて前者、あるいはその逆に、前者のように見えて後者、という人が少なからずいる。たとえば石川直樹さんは、視座よりも現実の描写をしている(と私は思う)し、セバスチャン・サルガドは、ジャーナリストとして現実の描写をしてはいるが、彼の写真に見えるのは、それ以上に彼の視座だ。

サルガドが撮っているのは「難民の写真」というより「難民のいる写真」であり、フレームの中に収まっているのは、難民という被写体をモチーフとした、彼の視座である。

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2012年8月 9日 (木)

写真から音楽を聴く

「音楽は耳で聞く。しかし、私たちは同時に、それを『見て』もいる。音の変化は、時間の流れをつくりだす。私たちの脳が、それをヴァーチャルな空間につくりなおす。そこから、音楽は生まれるのである。」(中沢新一「バルトークにかえれ」 )

先日、写真ゼミの受講生宛の手紙に、音楽をつくるときと写真をつくるときに氣をつけることには、共通点が多くあるということを書いた。

たとえば、ベース音は写真でいえば「シャドー」。ベースもシャドー部も、その存在感と質次第で、その上に乗っかる高音やライト部の印象ががらりと変わる。

上述のように中沢新一さんは、音楽を聴くとき人は、それを視覚的情報に置き換えて「見て」いるという。私もそう思う。

受講生への手紙を書きながら、ふと思った。もしかするとその逆も然りなのでは、と。人は写真や絵画を視るとき、それを「聴覚的情報」に置き換えて「聞いて」いるのかもしれない、と。

たとえば、抽象画をみると、「分からない」と言う人がいる。それは、そこにストーリーが読み取れない、つまり言語に置き換えできないから、理解できていないように感じるのだ。

言語というのは、聴覚的情報だ。文字は見るものだが、それを音に置き換えて理解する。抽象的な絵画や写真は言語で理解しづらい、つまり聴覚化がしづらいのである。

図を見てもそれが読み取れないとき不安になるのは、日本人はとりわけそうかもしれない。なぜなら、漢字という図を見たとき我々は、そこから読み方と意味の両方を連想し、しかも他の漢字圏と違い、読みも意味も文脈によって実に多様だからである。図から、音も定義も読み取れないということは日本人にとって、ちょっとした問題なのだ。

それに加えて私は、人は写真や絵画を見たとき、それを「音楽(のようなもの)」に置き換えて聞いているのではないかと思っている。

四角いフレームはいわば曲の長さ。そのなかにリズムやハーモニー、色彩がある。具象画からはメロディー(のようなもの)を感じ取り、抽象画からはクラスター(のようなもの)を聞いている。

心地よい写真には、心地よいリズムを感じ、繊細なトーンの写真には、繊細なハーモニーを聞く。

自分の撮った写真はなかなか客観的には見られないが、耳を澄ませ、そこからどんな音楽が聞こえてくるかを想像すると、案外客観視できるものだ。

ためしにご自身の写真を見てほしい。はたして好きな音楽は聞こえてくるだろうか。

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