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2012年8月 9日 (木)

写真から音楽を聴く

「音楽は耳で聞く。しかし、私たちは同時に、それを『見て』もいる。音の変化は、時間の流れをつくりだす。私たちの脳が、それをヴァーチャルな空間につくりなおす。そこから、音楽は生まれるのである。」(中沢新一「バルトークにかえれ」 )

先日、写真ゼミの受講生宛の手紙に、音楽をつくるときと写真をつくるときに氣をつけることには、共通点が多くあるということを書いた。

たとえば、ベース音は写真でいえば「シャドー」。ベースもシャドー部も、その存在感と質次第で、その上に乗っかる高音やライト部の印象ががらりと変わる。

上述のように中沢新一さんは、音楽を聴くとき人は、それを視覚的情報に置き換えて「見て」いるという。私もそう思う。

受講生への手紙を書きながら、ふと思った。もしかするとその逆も然りなのでは、と。人は写真や絵画を視るとき、それを「聴覚的情報」に置き換えて「聞いて」いるのかもしれない、と。

たとえば、抽象画をみると、「分からない」と言う人がいる。それは、そこにストーリーが読み取れない、つまり言語に置き換えできないから、理解できていないように感じるのだ。

言語というのは、聴覚的情報だ。文字は見るものだが、それを音に置き換えて理解する。抽象的な絵画や写真は言語で理解しづらい、つまり聴覚化がしづらいのである。

図を見てもそれが読み取れないとき不安になるのは、日本人はとりわけそうかもしれない。なぜなら、漢字という図を見たとき我々は、そこから読み方と意味の両方を連想し、しかも他の漢字圏と違い、読みも意味も文脈によって実に多様だからである。図から、音も定義も読み取れないということは日本人にとって、ちょっとした問題なのだ。

それに加えて私は、人は写真や絵画を見たとき、それを「音楽(のようなもの)」に置き換えて聞いているのではないかと思っている。

四角いフレームはいわば曲の長さ。そのなかにリズムやハーモニー、色彩がある。具象画からはメロディー(のようなもの)を感じ取り、抽象画からはクラスター(のようなもの)を聞いている。

心地よい写真には、心地よいリズムを感じ、繊細なトーンの写真には、繊細なハーモニーを聞く。

自分の撮った写真はなかなか客観的には見られないが、耳を澄ませ、そこからどんな音楽が聞こえてくるかを想像すると、案外客観視できるものだ。

ためしにご自身の写真を見てほしい。はたして好きな音楽は聞こえてくるだろうか。

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