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2013年1月

2013年1月19日 (土)

一線

日本写真学院でやっているゼミの最終日だった。2月に3人ずつ3週間に渡って行うグループ展に向けて、全員の完成形に近い作品を見た。

グループ展はまだ始まってもいないのだが、率直な感想は、

「こんなにうれしいことはない。」

長い人で1年以上にわたり、いろんな課題をクリアし、いろんな人の写真を視て、意見交換をし、丁寧にプリントをつくることを体得し、少しずつ少しずつ準備をしてきた。先週は3名、今週は6名の作品を見たが、全員が「ある一線」を越えたことを実感した。

その「一線」とは、非常に感覚的なので言葉ではうまく言えないが、写真の説得力であり、プリントのクオリティであり、本人の自覚である。9名全員が、それを誇りに、自信を持ってグループ展に臨んでほしい。

もちろん、作品に対する感じ方は人それぞれで、なかには批判的な目で見られるお客さまもいるだろう。だが、私にとってはすべての作品が、自分の作品と同じかそれ以上に大切で、美しい。

あまりにうれしくて、帰り道はずっとにやにやしていた。今、一人で祝杯をあげている。9名に感謝。

第1グループ https://www.facebook.com/events/327859277326655/

第2グループ https://www.facebook.com/events/135919756566643/

第3グループ https://www.facebook.com/events/104989973011574/

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2013年1月10日 (木)

熱と安全地帯

写真に限ったことではないが、「熱」をどれだけ持続させ、どれだけ伝えられるかが大切だとつくづく思う。

絵画なら1枚を描くのに、作曲なら1曲を書くのに、小説なら1冊書くのに、それ相当の時間を必要とするから、作者はその間ずっと熱を持ち続けないといけない。そのためには、強くて持続可能なアイディアや動機、あるいは書き続けるための自己管理が必要となる。

熱が持続しなかったものは完成しないから世に出せない。その意味では、制作期間ずっと熱が続くかどうかが、作品を世に出していいかどうかの一つの「自己フィルター」にもなっている。

写真においても、かつて技術的に困難だった時代、1枚を仕上げるのには相当な熱が必要で、そのためには被写体の吟味や、誰のためにつくるかが大切だった。フィルムカメラが普及してからも、撮ったはいいが現像に出さずにフィルムを放置ということもよくあったと思う。それも、言ってみれば熱が持続しなかったということだ。

ところがデジタル時代になって、熱がそれほど持続しなくても、簡単に写真を人に見せることができるようになった。それはそれで歓迎すべきことで、私もたくさんの恩恵を受けている。

だが、もし写真を「アート」として考える場合、さほど熱を帯びていない写真を簡単にアウトプットすることは、あまり本人のためにならないのではないかと感じている。なぜなら、熱は伝導するからで、熱を帯びていない作品は伝わりづらいからだ。

ならばあえて古い機材で苦労して写真をつくればいいかというと、そういうことでは必ずしもない。デジタルのスピード感を使って面白い作品をつくっている人はたくさんいる。ただ、写真が人になかなか伝わらないと感じている人は、「もしかすると自分の写真には『熱』が足りないのではないか」と疑ってみる価値はある。

だからといって、ひたすら「個人的な熱い想い」を写真に込めたらいいというわけではない(むしろ逆効果になることが多い)。ここでいう「熱」とは、熱いとか冷たいとかいう熱では必ずしもなく、ヴァイブレーションと言い換えられるものであろう。

では、伝わりやすい熱を得るためにはどうしたらいいか。自分の経験から言えば(自戒も含めて)、その一つのヒントが「安全地帯から出る」ことだと思っている。

「安全地帯」とは、簡単に撮れてしまう、簡単に写真がつくれてしまう領域のことで、その要素は人によって様々だが、被写体の選び方、被写体への近づき方、情報の削ぎ落とし方等々がある。

いつもより2、3歩前に出て撮る、あえて少々恥ずかしい思いをしたり、接近しづらいものに近づいて撮る、ずっと行きたいと思っていたがあきらめていた土地に思い切って行ってみるといったことは、文字通り安全地帯から出る行為だ。また、普段だったらこの程度でいいだろうと思う場面で、いやもっとやれば違うものが撮れるはずだからと粘るのも、「感性の安全地帯」を出ることになる。これらは、確実に写真を変える。

さらに言えば、他人に理解してほしいとき、人は写真を「説明的」にして「情報の安全地帯」に留まりがちだ。だが、その説明的な部分を大胆に削り落とすことでも写真は変わる。理解されにくくなるかもというリスクを背負う分、視覚的には締まった印象になり、みる側のイマジネーションを喚起することにもなり得る。

安全地帯は、人のエゴ(自意識)の範囲内にある。そこから勇氣を持って前に踏み出すとき、自己を超えたものが立ち現れる。それは熱となり、持続して、人に伝わると私は信じる。

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2013年1月 5日 (土)

鏡と窓と

1億総フォトグラファーともいえる今日、写真のあり方/価値をつくるうえでヒントになるんじゃないかと思う考え方がある。それは、「鏡と窓」。

「鏡と窓」は、キュレーターであるジョン・シャーカフスキーが1978年にMoMAで開催した「Mirrors and Windows」というタイトルの展覧会で使った表現で、シャーカフスキーによると、写真には大きく分けて2つ;「鏡」としての写真(自分の内面を知るために使う写真)と「窓」としての写真(外側で起きていることを知るための写真)があるという。

たとえば、アンセル・アダムスに代表される伝統的な手法による写真は「窓」に属し、その後に出て来たダイアン・アーバスに代表される、作者の内面描写により比重を置いたとされる写真は「鏡」に属する。

ところで、その1億人のフォトグラファーのなかで、写真にのめり込んでいく人たちのようすを見ていると、初めは記録のために撮り始めた写真(窓)だったものが、だんだん本人が「アート」や「表現」を意識するようになり、次第に自分の内面にフォーカスを当てた写真(鏡)を撮るようになっていくケースを多く見かける。また、とくに風景写真のような、見たものをありのままに写すことを目的とした写真(窓)に取り組む人も多い。

その大多数は「鏡と窓」を意識することなく写真をやっているのだが、けっきょくはどちらか一方に属する写真を撮っている人が少なくない印象を持つ。しかし、1億総フォトグラファーの現代においては、そのような写真は既に相当やり尽くされているので、本人が思っている以上に人々につまらなく受け止められることも多いのではないだろうか。

そんななか、絶妙なバランスで鏡と窓をブレンドさせた写真をつくっている人たちがいる。

一人は米田知子さん。たとえば「SCENE」と呼ばれるシリーズは、一見すると内面を描いた鏡的な写真に見えなくもない。しかし、そのタイトルや解説を見ると、世界各地の歴史的(主に戦争の)要所で撮られている窓的な写真でもあることが分かる。しかしそれは、ジャーナリズムとは一線を画していて、一度大々的な展覧会を拝見したが、プリントが非常に美しい。

また、米田さんは主に大判フィルムのカメラで撮っているのだが、その重い機材と明確なプランを携えて世界中で撮影する行動力にも目を見張るものがある。

このように米田さんは、感性、知性、芸術性、そして行動力の4点すべてにおいて高いクオリティを保ちながら、それらを絶妙なバランスで組み合わせて写真をつくる希有な存在だ。

もう一人は港千尋さん。たとえば「レヴィ=ストロースの庭」という本は、美しい写真集でありながら、レヴィ=ストロースという知性へのオマージュであり、同時に人類学者でもある港さん自身の過去のフィールドワークの写真が多数あり、レヴィ=ストロースについての写真集でありながら人類学そのものがなんとなく分かるというものでもある。ところどころに港さんの文が挿入されているが、写真と文のバランスもいい。

港さんもまた、感性、知性、芸術性、行動力、それぞれの完成度とバランスにおいて、他に例のない存在である。

「鏡と窓」に加えて、アートとアクション。2013年には、このような写真をもっと見たいと思う。

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2013年1月 3日 (木)

引用

2013年最初の個人的なキーワードは「引用」だ。

ところで、写真を「自己表現」と考えることに、ずっと以前から違和感があった。

どんなに何かを表現しようと思っていても、目の前にあるもの、その瞬間に起きていることだけがフィルムに写し取れるという写真の性質上、表現や技術だけではどうにもならないものがそこにはある。加えて、わざわざ自分自身を表現しようなんてしなくても、写真には自ずと撮影者の心のあり位置が写ってしまう。

だったら、目の前の事象を描写することに意識を集中してみよう、その描写のなかに人は「表現」を見るかもしれないし、徹底した描写の先に自分が見ていなかった/感じていなかったものが立ち現れてくるかもしれない、そんなつもりで近年は写真をつくってきた。

そして2013年。そこからさらに、写真を「引用」として捉えたいという想いが出てきた。

引用とは一般に「人の言葉や文章を、自分の話や文のなかに引いて用いること」を差す。これを写真に置き換えて考えてみると、「人や自然の姿や営みを、自分のイメージ(写真)のなかに引いて用いること」かと思う。

文章の引用は、広大な知性の地平から光る一節を探し出し、出所を明記して自分のものとせず、文のなかにそのまま引いてくる作業である。そこにはセンスが問われるし、その引用が必然と感じられる論理の構築力も求められる。

同様に写真は、私にとって、森羅万象から、自分を超えた何ものかの力が働いたときの命がキラリと光る瞬間の像を見つけ出し、自分の画のなかに引いてくる作業にほかならない。そこにはやはりセンスが問われるし、引用が必然と感じられる画の構成力も求められる(インスピレーションと呼ばれるものもまた、我々の潜在意識の深いところをこんこんと流れる知性と感性と霊性の水脈からの引用かもしれない)。

今年はこれまで以上に、表現しよう表現しようとするのではなく、引用させていただくという意識を持ちたい。

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