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2013年1月10日 (木)

熱と安全地帯

写真に限ったことではないが、「熱」をどれだけ持続させ、どれだけ伝えられるかが大切だとつくづく思う。

絵画なら1枚を描くのに、作曲なら1曲を書くのに、小説なら1冊書くのに、それ相当の時間を必要とするから、作者はその間ずっと熱を持ち続けないといけない。そのためには、強くて持続可能なアイディアや動機、あるいは書き続けるための自己管理が必要となる。

熱が持続しなかったものは完成しないから世に出せない。その意味では、制作期間ずっと熱が続くかどうかが、作品を世に出していいかどうかの一つの「自己フィルター」にもなっている。

写真においても、かつて技術的に困難だった時代、1枚を仕上げるのには相当な熱が必要で、そのためには被写体の吟味や、誰のためにつくるかが大切だった。フィルムカメラが普及してからも、撮ったはいいが現像に出さずにフィルムを放置ということもよくあったと思う。それも、言ってみれば熱が持続しなかったということだ。

ところがデジタル時代になって、熱がそれほど持続しなくても、簡単に写真を人に見せることができるようになった。それはそれで歓迎すべきことで、私もたくさんの恩恵を受けている。

だが、もし写真を「アート」として考える場合、さほど熱を帯びていない写真を簡単にアウトプットすることは、あまり本人のためにならないのではないかと感じている。なぜなら、熱は伝導するからで、熱を帯びていない作品は伝わりづらいからだ。

ならばあえて古い機材で苦労して写真をつくればいいかというと、そういうことでは必ずしもない。デジタルのスピード感を使って面白い作品をつくっている人はたくさんいる。ただ、写真が人になかなか伝わらないと感じている人は、「もしかすると自分の写真には『熱』が足りないのではないか」と疑ってみる価値はある。

だからといって、ひたすら「個人的な熱い想い」を写真に込めたらいいというわけではない(むしろ逆効果になることが多い)。ここでいう「熱」とは、熱いとか冷たいとかいう熱では必ずしもなく、ヴァイブレーションと言い換えられるものであろう。

では、伝わりやすい熱を得るためにはどうしたらいいか。自分の経験から言えば(自戒も含めて)、その一つのヒントが「安全地帯から出る」ことだと思っている。

「安全地帯」とは、簡単に撮れてしまう、簡単に写真がつくれてしまう領域のことで、その要素は人によって様々だが、被写体の選び方、被写体への近づき方、情報の削ぎ落とし方等々がある。

いつもより2、3歩前に出て撮る、あえて少々恥ずかしい思いをしたり、接近しづらいものに近づいて撮る、ずっと行きたいと思っていたがあきらめていた土地に思い切って行ってみるといったことは、文字通り安全地帯から出る行為だ。また、普段だったらこの程度でいいだろうと思う場面で、いやもっとやれば違うものが撮れるはずだからと粘るのも、「感性の安全地帯」を出ることになる。これらは、確実に写真を変える。

さらに言えば、他人に理解してほしいとき、人は写真を「説明的」にして「情報の安全地帯」に留まりがちだ。だが、その説明的な部分を大胆に削り落とすことでも写真は変わる。理解されにくくなるかもというリスクを背負う分、視覚的には締まった印象になり、みる側のイマジネーションを喚起することにもなり得る。

安全地帯は、人のエゴ(自意識)の範囲内にある。そこから勇氣を持って前に踏み出すとき、自己を超えたものが立ち現れる。それは熱となり、持続して、人に伝わると私は信じる。

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