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2013年4月20日 (土)

世界に意味を与えるのか、世界から意味を読み取るのか

「世界に『意味を与える』ために人はファインダーの向こう側に関係している自分自身を感じなければならない。そのためには、集中力、心の鍛錬、繊細さそして幾何学的なセンスが求められる。」アンリ・カルティエ=ブレッソン

欧米人と日本人とでは、なぜか好む写真が違う。よって欧米の写真家と日本人写真家が撮る写真の傾向も違う。

ネットで世界中のフォトグラファーの写真が見られるようになった今日、それがこれまで以上に顕著に思えてきて(たとえばこのサイト)、なぜそうなのか、ここ1、2年ずっと考えてきた。

なかなか答えはでなかったのだが、先日、上記のカルティエ=ブレッソンの言葉をある本で読んだとき、「もしや」と思ったことがある。写真における「意味」について、欧米人と日本人は、正反対のアプローチを取るのではないだろうか、と。

すなわち、欧米の写真家が、写真を通して自らが「世界に意味を与える」という能動的なアプローチを多く取るのに対し、日本人の写真家は、「世界から意味を読み取る」ことを大切にする受動的傾向が強いのではないかと思ったのである。

また、欧米人が言葉によって意味をはっきりさせたがるのに対し、日本人は意味が読み取られないようにぼやかすことも多い。

意味を与える欧米人と、意味を読み取る日本人。意味を明確にする欧米人と、意味をあいまいにする日本人。

カルティエ=ブレッソンの写真には、単なるスナップを超えた、彼の美意識に基づいて幾何学的な画に昇華されたものが多い。これは、意味のない状況にカメラを向けフレーミングすることでそこに「意味をつくりだす」行為と言ってもいいだろう。

ウタ・バースも、その純度の高い抽象化によって、目の前にある光、影、色、かたちに、特別な「意味を与える」ことに成功している。

また、ウォルフガング・ティルマンスは、写真家の役割とは世界の再定義だと言っている。

対して日本人の写真家の多くは(あえて例を挙げないが)、眼前の事象から「意味を読み取り」、それを純度の高い描写によって表わそうとする。どんな新しい価値をつくりだすかより、どんなことを感じて撮ったかを大切にする。

写真に限らず、工業製品でも同じ傾向があるのではないだろうか。欧米人が新しい価値(たとえば、自動車、電話、コンピューター)をつくりだし、日本人はそこから価値を読み取り、より高度なものへとつくりかえていく。

誤解してほしくないのは、欧米人が優れていて、日本人がそうでないと言っているわけではないということだ。「意味」にたいするアプローチが違うということだ。

その違いがはたして文化から来るのかどうか、けっきょくのところ、理由はまだ分からないままではあるが。

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