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2013年4月12日 (金)

見る側の感情を喚起する写真

以前の記事で、写真を「自己表現」とすることに違和感がある、表現しよう表現しようとするのではなく、徹底した描写の先に人は感情を読み取るのでは、というような内容のことを書いた(「引用」)。

このことを説明するとき、担当する写真ゼミではよく、スデクを例に挙げる(Josef Sudek)。

スデクは、「プラハの詩人」と呼ばれるほど、その作品をして見る者に多くの感情を喚起せしめるが、私には彼の作品が、何かの感情を伝えようとしてつくったものには見えない。おそらく(本人に確認することはできないが)、その徹底した描写に、我々が勝手に感情を投影しているだけではないのかと思っている。

ところが先日、写真ゼミの受講生が興味深い質問をしてきた。「では、スデクとベッヒャー夫妻の違いは何なのでしょう? ベッヒャー夫妻も描写に徹していると思うのですが、私はそこから感情を読み取れません。」

私は「いい質問ですね」と言った後即答できず、宿題にさせてもらった。

その後考えた末、一つの仮説に行き着いた。それは、

「両者とも、描写に徹し、見る側に感情を伝えよう伝えようとしていない点では共通するが、スデクがその場で多くの感情を抱きながら撮影していたのに対し、ベッヒャー夫妻は、さほど感情を抱かずに撮影しているのではないか」

というものだ。

ティルマンスが言うように、写真には作者の心が写る(「写真に写るもの(1)」)。多くを感じながら撮った写真と、そうでないものには、差が出るだろう。

売ろう売ろうとしている広告写真に我々がさほど魅力を感じないのと同じ理由で、感情を伝えよう伝えようとしている写真からは、「想いを伝えよう伝えようとしている作者」のほうが際立って見えてしまって、見る側は逆説的に冷めてしまいやすいのではないか。

スデクの写真から私は、そのような作者の姿は読み取れないが、多くの感情を喚起させられるのである。

Aria008

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