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2013年6月

2013年6月 6日 (木)

写真かフォトグラフか自己表現か

先週末、2日間でたくさんの写真を視て、講評をした。一つはワークショップで、もう一つは公募の作品群について、1枚1枚コメントをするのが私の役割だった。

無責任に「もっと〜したほうがいいんじゃないの?」と、個人的好みを押し付ければ簡単だったのだろうが、それでは本人のためにならないと思っている。だから、できるだけ建設的に語ろうとした。

ワークショップでの講評は、レクチャーや質疑応答を経て撮影してもらった作品だったから、一定の共通点があり、やりやすかった。

だが公募作品の講評は、参加者それぞれの、写真にたいする立ち位置が違っていてむずかしい。

講評した作品は、大きく以下の3つに分けられた。

1)写真、2)フォトグラフ、3)自己表現

1)の「写真」とは、真実を写したもの、すなわち、見たものをそのままに写し取ったものだ。

見たものをどれだけ忠実に画像として再現できるかが大切だ。

日本人が以前からポジフィルムを好み、クリエイティヴなレタッチ技術があまり普及しない背景には、この「写真」という概念が根底に流れているからかもと、ときどき思う。

「写真」には、「記録写真」や「記念写真」の要素が強い。

対して2)の「フォトグラフ」は、英語のphotograph。語源は「光で描いた画」である。「写す」という受動的な行為による「写真」に比べて、能動的に「描く」という意味合いが強い。

その「描く」という行為ゆえ、フォトグラフは、「アート」に近い。

なぜなら、アートの一つの定義は「人間の創造的スキルを用いた表現」であり、「描く」という行為は、(「写す」に比べ)創造的だからだ。

3)の「自己表現」は、ここでは狭義の自己表現を指す。すなわち、「私を」表現している、「私を」見てもらうための表現のことである。

一番見てほしいのは、写真のなかの真実でもフォトグラフのなかの創造性でもなく、こんなすてきなものを写し、こんなすごいスキルで描いている私自身なのである。

俳句のなかに、「見ゆる」とか「聴く」といった、作者自身の知覚動詞が出てくると、とたんに「こんなすてきなものを見つけた私ってすてきでしょ?」「こんなオシャレな音を聴いた私ってセンスいいでしょ?」と言われているようで読む側が冷めてしまう現象が、写真にもあるのではないか。

R3000627

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