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2013年8月

2013年8月28日 (水)

絶対性と相対性

先日、友人の指揮者とディレクターと打ち合わせを兼ねたランチをしたとき、指揮者のほうが、子どもに教えるとき「何が好きで、何をしたいのか」をさかんに問うと言っていた。後ろで観ている保護者に「すいませんねぇ」と謝りつつ、本人にはどんどんそれをしなさいと言うと。

思えば、私も写真ゼミで、「あなた自身はどんな写真をつくりたいのか」をよく問う。しかし、善良な社会人であればあるほど、「求められる写真」「うまい写真」をつくろうとする。

それは、日本社会が「相対性」(反対は「絶対性」)を大切にする社会だということが大きく作用しているのではないかと思っている。言い換えれば、「何をするか」より「どこにいるか」に重きを置く社会。

たとえば、大手就職斡旋会社が、大学4年生に対して「就職企業人気ランキング」なるアンケートをとる。それは、プロフェッショナルとして「何の仕事をしたいか」よりも、社会人として「どこに属したいか」のほうを重要視している現れだろう。

就職した後も、職種よりも役職がものをいうケースが多いのではないだろうか。「何ができるか」より「どの地位にいるか」である。

ジャーナリズムではまた、欧米のメディア以上に「年齢」と「性別」を表記する。これは、ニュースの中の人が自分と比べて「どこに位置しているか」を知ることで読む人が安心するからだろう。

このような社会では、多くの親は子どもに、社会の中で優位なポジション(=相対的に高い位置)に属するようになってほしいと願う。本人の個性や意思(=絶対的な自我)は、あくまで相対性のなかで活かされるべきとされる。「空気を読む」ことが重要視される(オーケストラなど組織を統率することの意味も変わってくる。これについては機会があればいずれ)。

しかし、アートの場合、相対性で考えてもアーティストとしての自己はいつまでも確立されない。「自分にはこれしかできない」でもいいかもしれない。その発想は、必要とされるポジションに空気を読んで柔軟に移動することをよしとする社会では重荷とされるかもしれないが、アートにおいては大切な絶対性の一つだ。

ただし、アートの「評価」は相対的である。なぜなら、アートが評価されるためには、なにか創造的な、誰もつくったことのない新しいものでなくてはならず、その基準や判断は相対的だからだ。評価するのはアーティストの仕事ではない。評価されないのはつらいのだが。

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