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2013年12月17日 (火)

作品のクライマックスをどこに置くか

「音楽を絵画に例えるなら、演奏家はデッサンするだけ。色を塗って作品を完成させるのは聴き手」フィレデリック・ショパン

「作品のクライマックス」をどこに置くかは、大切だ。

ここでは、1)作品のなかのクライマックスと、2)制作のプロセス(制作開始から完成・発表まで)における感動のクライマックス、の二つについて考えてみたい。

まず、1)作品のなかのクライマックスについて。

西洋音楽、とくにポピュラー音楽では、後半のエンディング手前にピークを置くものが多い。いわゆるサビというやつだ。

クラシック音楽では、コーダと呼ばれる終結部が最高潮になる曲もある。

能や雅楽には、序破急という考え方がある。その場合、クライマックスは最後にある。

以上、いずれの場合も後半が山場になる。そのためには最後まで聴いてもらえる観てもらえるための魅力的な導入部をもつことが重要なことは言うまでもない。

次に、2)制作プロセスにおける感動のクライマックスについて。

音楽の場合は、劇場で演奏される瞬間が感動のクライマックスであろう。作曲時の作曲家のインスピレーションもたしかに強烈ではあるが、その時点の譜面はまだ作品になる前の「記号」である。それが現実の音として演奏されるとき、聴衆は音を「体験」し、そこで作品が「完成」する。その体験に感動するのだ。上述のようにショパンは、演奏がデッサンで、それに色を塗るのは聴衆だと言っている。ショパン流に言えば、演奏家のデッサンをもとに聴衆が自分で塗った色彩に感動するのだ。

小説なら、読者のなかで物語が展開したときがクライマックスだろう。言葉もやはり譜面と同じく記号であり、それ自体が人間の生理になにかを訴えるわけでないが、それが読み手のイマジネーションのなかで意味を持ち、物語になると、リアルな「体験」となり、人々はその体験に感動を覚える。

写真であれば、たとえばこのブログでも何度も登場している米田知子さんの作品の場合、ギャラリーでプリントを見たうえで、タイトルとキャプションを読んだとき、鑑賞する人のなかで作品が「完成」する。

ところが世の中には、撮影者が撮影したときの楽しさや興奮がその作品のピークで、それに匹敵する(それを超える)感動体験を、見る側が体験できない写真も数多く存在する。

もちろん、楽しみのために写真をやっているのであればそれ自体なんら問題がないどころかむしろ健全であるし、また撮影時の楽しさを放棄すべきと言っているわけでもない。ただ、もしその写真を「作品」として発表し、人々と何かを共有したいのであれば、それが鑑賞されたときにオーディエンスのなかで作品がクライマックスを迎えるような仕掛けを作者がつくることは、大切なのではないだろうか。

あらゆるジャンルで活躍するクリエーターが口を揃えて、制作時に必ずしも一番楽しいこと、一番好きなことをやっているわけではないと言っている。それはつまり、感動のクライマックスを、作品制作時ではなく、鑑賞時の体験に置いているということなのだろう。

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