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2014年1月

2014年1月 2日 (木)

アイデンティティとアルタリティ

「いま自己の内に発見すべきは、アイデンティティではなく、むしろ、アルタリティというものではなかろうか」武満徹(作曲家)

写真においても、アイデンティティを意識する人が増えてきている。アイデンティティ(identity)という言葉は「自己同一性」とかいう意味不明の翻訳がつけられるほど、訳の難しい英単語の一つであるが、「存在理由」「私が私である理由」「ほかと違うこと」、そんな意味だ(と私は思っている)。「日本人としてのアイデンティティ」などと言う場合は、民族的(民俗的)な独自性と大きく関わってくる。

私がやっている写真ゼミでも、個性は大切にしている。一人ひとりに、他の誰も持っていない才能や感性、ものの見方、生活環境、生い立ちがあるので、それらをバックボーンにすることで、誰にも真似できない写真が撮れる。私はそれを見るのが好きだし、それはその人の美しい側面だと思っている。

ところで、日本のいわゆる写真界は、長い間内向きに成長してきた。つまり、日本人が日本人にウケる写真を撮ってきた。それはたとえば、見知らぬ外国の風景やモデルであったり、見たこともない自然の表情であった。そこにはあまりアイデンティティを問われることはなかったように思う。より正確に言えば、写真家のアイデンティティは存在していたが、外国人相手に、という発想はあまりなかったように思う(このように書くとネガティヴに受け取られがちだが、日本独特の写真集文化などが熟成された時期でもあった)。

ところが、パリフォトや各種フォトレビュー、コンテストの情報が多く入ってくるに従って、写真作家として海外に出て行こうという人が増えてきた。そこで各々が考え始めたのが「アイデンティティ」である。

冒頭に挙げた故・武満徹さんは、ニューヨークフィルからの委嘱曲「ノヴェンバー・ステップス」を1967年に書くまで、積極的に日本の伝統楽器を使っていた。琵琶にいたっては、武満さん本人が編み出した新しい奏法があるほど熟知していた。

その委嘱も「尺八と琵琶とオーケストラの協奏曲を書いてほしい」というものだった。それは、想像するに、Toru Takemitsuという日本人作曲家に、民族的アイデンティティを大切にした、誰も聴いたことのない(アメリカの聴衆からすれば)エキゾチックな協奏曲を書いてほしいという依頼だったに違いない。

しかし、武満さんは悩み抜いた挙げ句、それら邦楽器とオーケストラはまったく異質なものであるから同時に奏でることはできないと判断し、邦楽器とオーケストラが交互に奏でるという、およそ協奏曲的ではない曲をつくった。

はたして「ノヴェンバー・ステップス」は大絶賛され、武満さんの代表曲になったわけだが、武満さんはこの曲あたりを境に、邦楽器を使った曲を一切書かなくなった。

あるとき武満さんは、国際的な作曲コンクールの審査を行った歳、若い日本人作曲家について、このように語った。

「かなりの作品が日本の伝統楽器を使って書かれている。附けられた題から推して、それらは『日本』というものを意識したものであり、この(現代)音楽の混乱や、西欧の影響下からの自立を求めて作曲されたのだろう。音楽に確かなアイデンティティを希求するのは解る。だが、私は、若い作曲家のそうした姿勢のなかに(実現された作品を通じて感じたことだが)、何か、行き着くところは限られ、閉ざされた、袋小路を彷徨しているようなもどかしさを感じたのだった。いま自己の内に発見すべきは、自己同一性(アイデンティティ)ではなく、むしろ、他性(アルタリティ)というものではないだろうか」(新潮社『時間の園丁』より)

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