« 2014年1月 | トップページ | 2014年4月 »

2014年2月

2014年2月13日 (木)

メロディに頼らない音楽、主題に頼らない写真

写真の被写体(モチーフ)は、音楽でいえばメロディのようなものだと思っている。

写真を音楽に置き換えてみると、発見が多い。写真のハイライトとシャドーは、音楽の高音と低音の関係に似ているし、写真の色や光、トーンは、音楽のハーモニーや楽器編成に近い。

メロディのはっきりした音楽にインパクトがあるように、モチーフの明確な写真にもインパクトがある。だが、分かりやすすぎるメロディが幼稚に聞こえるように、使い古された分かりやすすぎるモチーフの写真も、チープに見えることがある。

ところが、たとえば童謡のメロディを、いわゆる三和音でなく、ジャズやボサノヴァの洗練されたハーモニーで弾いてみると急にオシャレに聞こえたりするように、同じモチーフでも、色やトーンが洗練されているとまったく印象が違う。

ゼミの修了展をやっていると、ときどき、来てくださった方に「これは何ですか」「何を撮っているんですか」と質問されて困るゼミ生がいる。それはある意味で、彼または彼女がゼミで多くを学んだ証拠。なぜなら、ゼミでは、主題に頼らず色やトーンで見せる方法を学ぶからだ。いわば、メロディーに頼らずハーモニーで聞かせる方法だ。メロディをつけるのは、ゼミを修了してからどんどんやればよい。

色やトーンの使い方は、その写真家の「文体」である。岡本太郎さんの言葉を借りれば、ダンサーの文体は身体の使い方、画家の文体は色の使い方。作曲家ならハーモニーやリズム、楽器の使い方だろう(ついでにいえば、写真や絵画のフレーミング感覚は、音楽のリズム感に近いかもしれない)。文体には個性が出る。

私は写真の仕事をするずいぶん前に作曲家に弟子入りしてクラシックの作曲法を長い間学んだのだが、そこではメロディのつくり方はほとんど学んでいない。もっぱら上記のハーモニー、リズム、楽器の使い方を学んだ。私が写真ゼミでやりたいこともけっきょくそこなのだとあらためて感じている。

20140208007

(c) all rights reserved

|

2014年2月 4日 (火)

自己表現という呪縛

写真は一つの表現の手段だと思うが、だからといって、必ずしも「自己表現」でなくてもいいと個人的には思う(写真を「自己表現」と呼ぶことに違和感があるということは以前述べた。)。

では、「自己表現」と「表現」は、どこが違うのか。いろいろな解釈がもちろんあると思うが、私が考えるのは、「私を伝えること」を第1の目的にしているものが前者、そうでないものが後者。だが、写真作家を志している人と話していると、「作品と呼ぶからには私の想いを伝えなくてはならない」という呪縛に囚われている人にかなりの頻度で会う。

社会や教育の中で「表現」する機会が(欧米に較べて)少ない我々日本人が表現について考えるとき、どこか「自分のことを伝える/自分をさらけだす」的なニュアンスが含まれることはある意味自然だ。殊に写真においては、「感動したものを写し、それを発表すること」が写真表現だという風潮は強いし、「写真で想いを伝える」というのも、よく聞くフレーズだ。

それ自体に問題はないが、しかし、写真表現の可能性・領域はもっと広いものだと私は思う。自己の内面とは直接関係のない表現だってある(間接的には関係あるだろうが)。それはたとえば、「見たこともない(視覚的)アイディアをかたちにしたもの」とか。

伝えたいのは「私のこと」なのか、あるいは、己の内面とは関係ないけどれど「新しいアイディア」なのか。私は両方あっていいと思っている。

言い換えれば、撮るときに感動しながら撮った写真や作者の想いが詰まった写真も表現だし、必ずしも撮りながら感動してはいないけれど見る人に驚きを与える写真も表現だ。前者の「自己表現」に囚われて苦しくなっている作家志望者は、それを一度手放したら楽になるかもしれない。

R2062409

(c) all rights reserved

|

« 2014年1月 | トップページ | 2014年4月 »