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2014年2月 4日 (火)

自己表現という呪縛

写真は一つの表現の手段だと思うが、だからといって、必ずしも「自己表現」でなくてもいいと個人的には思う(写真を「自己表現」と呼ぶことに違和感があるということは以前述べた。)。

では、「自己表現」と「表現」は、どこが違うのか。いろいろな解釈がもちろんあると思うが、私が考えるのは、「私を伝えること」を第1の目的にしているものが前者、そうでないものが後者。だが、写真作家を志している人と話していると、「作品と呼ぶからには私の想いを伝えなくてはならない」という呪縛に囚われている人にかなりの頻度で会う。

社会や教育の中で「表現」する機会が(欧米に較べて)少ない我々日本人が表現について考えるとき、どこか「自分のことを伝える/自分をさらけだす」的なニュアンスが含まれることはある意味自然だ。殊に写真においては、「感動したものを写し、それを発表すること」が写真表現だという風潮は強いし、「写真で想いを伝える」というのも、よく聞くフレーズだ。

それ自体に問題はないが、しかし、写真表現の可能性・領域はもっと広いものだと私は思う。自己の内面とは直接関係のない表現だってある(間接的には関係あるだろうが)。それはたとえば、「見たこともない(視覚的)アイディアをかたちにしたもの」とか。

伝えたいのは「私のこと」なのか、あるいは、己の内面とは関係ないけどれど「新しいアイディア」なのか。私は両方あっていいと思っている。

言い換えれば、撮るときに感動しながら撮った写真や作者の想いが詰まった写真も表現だし、必ずしも撮りながら感動してはいないけれど見る人に驚きを与える写真も表現だ。前者の「自己表現」に囚われて苦しくなっている作家志望者は、それを一度手放したら楽になるかもしれない。

R2062409

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