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2014年11月26日 (水)

シンプリシティ

写真をつくればつくるほど、音楽をつくればつくるほど、その根本にあるシンプルな「原理」が大切に思えてくる。

その「原理」とは、写真であれば、光が発せられること、反射すること。それをフィルムが感受して像をつくること、印画紙の銀が黒く化学反応することなど。

音楽であれば、なにかを摩擦したときや叩いたとき、音が生じるということ。それが空氣を経て、空間で反射し、鼓膜を振動させること、抽象的な振動の連続が聴き手の脳内でなにかのイメージに変換されることなど。

それらを四角い媒体のどこに配置するか(つまり構図)とか、時間軸上のどこに配置するか(曲)ということももちろん大切だ。しかし、それ以前の、光や音が発せられる瞬間のドラマ、向こうからやってきて再び去っていくかりそめだがリアルな姿、それらをどうつくり、とらえることができるか、いかに共有できるかということが、やればやるほど大切なことに思えてくる。

デジタル写真も、打ち込み音楽もつくる私だが、発想の原点は、写真ならばフィルムと印画紙、音楽なら生楽器。粒子が現像液のなかで立ち上がる瞬間、音が弦楽器から立ち上がる瞬間、その奇跡を、その感動を、忘れてはならないと思う。

昨夜も能の舞台を観に行った。お囃子、つまりバックの楽器は、きれいな音を出すこと以上に、弾き手の呼吸を合わせることが大切にされているという。張りつめた空氣のなかで次第に曲のテンポが上がっていく。それにつれ全員でひとつの有機体のような演奏になっていく。

その軽やかなうねりのような波のような音に乗っかるように、シテが舞う。音に乗るだけでなく、時折その流れに竿を挿すように垂直に飛び、大地とつながるように音をたてて着地する。

観客はその一部始終を全身で感じる。面の奥でシテの声が発せられる。面を通したわずかにこもった声が、その息遣いが、雨の夜の空氣を伝って我々の胸に響く。

そのシンプルさ。名人の技ほど、シンプリシティの美を人に伝える。

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