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2015年6月19日 (金)

みるということ

写真が被写体の時間を固定することで純化、結晶化を行う一方で、写実絵画は絵画であることに起因する矛盾に直面し「みる」「みえない」の完了せざる運動の中で純化、結晶化が行われるのである。」(ACCETORY 三宅隆平)

写真家はどれほど絵画のことを意識するのか。他の写真家のことはわからないが、少なくとも私の場合、絵画のことは常に心のどこかにある。

その理由は育った背景にある。十代の頃米国で絵画を学び、そのまま米国に残っていれば奨学金をもらって大学でアートを専攻したんじゃないかと思う(そのころの私はまだカメラを手にしていない)。

けっきょくは日本に戻って大学では国際法と難民問題を学んだ。その後作曲を学び、写真を知ったのは、そのずいぶんあとになってから。

20年ちかく遠回りをしてから「ビジュアルアート」に再び接してみると、十代の頃に感じていたこととはちがうことを感じるようになった。写真から絵画をみると多くの発見があり、その逆もそうだった。

それは非常に興味深い体験だったが、両者の違いをなかなか言葉にできないままでいた。それをうまく表現してくれていたのが冒頭に引用した以下の記事である。

「なぜ写真ではなく絵なのかー諏訪敦『どうせなにもみえない』からリアリズム絵画を考えてみる」 https://accetory.jp/articles-080

この記事のタイトルは「なぜ写真でなく絵なのか」となっているが、私はいつも「なぜ絵でなく写真なのか」を自問している。答えは日々流動的で結論はでていないが、絵と写真とでは、何かが決定的に違うことだけはわかっている。そのひとつの要素が「みる」ということだ。

この記事によると、アントニオ・ロペスはあの名作を朝20分間、7年かけて描いたという。

諏訪敦さんやロペスの作品からは、作者が「みる」ということに莫大な時間をかけていることが直感的に分かる。

また、写真では機械とフィルムまたはソフトウェアが瞬時に行う「解像する」という作業を、絵画では作者がやっている。この「解像する」ということが、実は絵画、写真のひとつの肝だと思っている私は、両者のプロセスの違いの大きさにあらためて打ちのめされている。

諏訪さんの作品集のタイトル「どうせなにもみえない」は、肉眼で(また知性で)極限まで解像していったことのある者にしか説得力を持って言い得ない言葉だろう。

また、絵画のプロセスにおいては、解像するのに長い時間がかかる。それはつまり、その間に被写体が動き、光が変化することも意味する。絵画ではつねに変化して見えるものから作者がそれらの「近似値」を出すことが求められる。近似値というと無機質にも聞こえるが、著者の言葉でいえば、それもひとつの純化、結晶化のかたち。

では、写真において「みること」とは何なのか。写真家は、私は、何をみて、なにをみていないのか。

永い創意工夫のあとスタイケンが写真はアートではないと結論づけた理由も、いまではよくわかる。

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