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2016年4月

2016年4月22日 (金)

アースデイ

今日はアースデイ。私の曲に「アース」という曲があります。タイトルは、地球というより、「土」「大地」という意味です。2002年に発表したピアノ四重奏曲の第2楽章。

実はこの曲、ピアノ四重奏曲に組み込む前に、ある映画のサントラ候補としてデモをプロデューサーに渡したことがあります(結局その映画は岩代太郎さんが担当しました)。大陸の大地をイメージした音楽は、我ながらなかなかよかったように思います(映画館で鳴らしたかったな)。採用されなかったけど曲は氣に入っていたので、別アレンジで生き返らせました。

その後もこのプロデューサーとのやりとりは続いて、ちょうど別な楽曲に取り組んでいる最中に、実家付近を震源とした中越地震が起きました。一時は音信不通でライフラインも断たれ、どうなることかと思いましたが、数日後我々が物資とともに駆けつけたときには、多少は落ち着いていました。

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今日はアースデイということで、また、熊本で続いている地震を思い、この曲を紹介します。

同タイトルのアルバムも出てます。ライヴではもうおなじみにナンバーです。この曲を池上本門寺でのライヴで演奏したとき、客席にいた僧侶の方が涙を流して聴いてくださり、その後この曲でその方とコラボをすることにもなった思い出の曲でもあります。仏陀曰く、人は土から生まれ、土に還る。

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2016年4月20日 (水)

プリントの意図と天ぷら〜写真展をつくる(16)

前回に引き続き、制作の意図について。今回は、プリントのときに意図したこと、つまり「物質的インテンション」のお話をします。

白黒写真はよく、カラーから色情報を抜いただけのものに思われます。スマートフォンで撮った写真をアプリでいじって白黒にするときなんかに限って言えば、だいたいそんなもんです。

でも、先日お話ししたように、それがプリントという「物質」になると、ちょっと違います。同じ「黒」でも、プラチナの黒、銀の黒、顔料の黒は違います。それはちょうど、絵画で、油彩の黒、水彩の黒、墨の黒、鉛筆の黒が違うのと似ています。

私が個展で選択しているのは「ゼラチンシルバー」ですから、銀の黒です。今回プリントをつくるとき意図したのは、その黒が存在感を持つこと、そしてそれによって印画紙が、「物質として」存在意義を持つようにする、ということでした。

いまアナログ写真をやる意義の1つは、ここにあると思っています。デジタルにはない「物質性」と、顔料インクにはない風合いです。

なので、現像液などの薬品も、それに相応しいものを選んで使いました。印画紙も大切ですが、現像液も大切です。

また、存在感がほしいからといって、必ずしも「重く」すればいいとは限りません。人間でも、重々しい人だけに存在感があるわけではありません。軽やかに振る舞う人にだって存在感があります。

結果的には、ここでお話したように「黒い」プリントが多くなったのですが、今回は黒い中にも一種の「軽さ」も含ませることができたように自分では思っています。同じネガの、むかしのプリントと較べてみるとそれがよくわかります。

よく友人と、暗室のプリントは天ぷらみたいなもんだと話します。素材、衣、油、温度、揚げる秒数で味が決まります。暗室ワークと似てますね。しかも不思議なことに、同じ材料で同じように揚げても、揚げる人によって味が微妙に違います。これも現像と一緒。

そんなこと書いていたら天ぷらが食べたくなってきました。

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☆安達ロベルト写真展「断片化の前に Before Fragmenting」冬青ギャラリー6/3〜25

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2016年4月16日 (土)

3つのインテンション〜写真展をつくる(15)

写真展「Before Fragmenting」では、主に以下の3つにおいて、意図を持って制作にあたりました。

その3つとは、作画、プリント、コンセプトです。別な言い方をすると、視覚的インテンション、物質的インテンション、知的インテンションを持って制作しました。

今回はそのうちの、視覚的インテンション(作画)についてお話します。

展示予定の作品の約9割が、無限遠で撮られたランドスケープです。近くのものに焦点を当てることなく、風景全体をつかまえています。

前にも書きましたが、このような作風の展覧会は初めて行います。ギャラリーオーナーの提案がなければやろうとも思わなかったでしょう。

でも実際にプリントをつくってみると、非常に面白く、自分のポジティヴな面が出せるアプローチでもあることに氣づきました。ありがたい話です。

さてそこで、1つ目の意図、作画についてです。それは、無限遠パンフォーカスの画で、抽象的な印象を与えるという意図です。

風景をオープンに写しているわけですから、画そのものは具象。意図を持って取り組まないと、説明的になってしまうこともあります。具象でありながら印象を抽象的にしたいわけです。

いろんな考え方がありますが、写真においては、輪郭をぼかして印象をあいまい(vague)にすることが抽象化だとは私は考えていません。対象をしっかり描きつつ、複数の解釈が可能(ambiguous)な画にしたいと思っています。

とくに私の場合、写真によって、何かのメッセージや特定の感情を伝えよう、味わってもらおうと思っていませんから、具体的でありながら、いろんな解釈が成り立つ画にしたいと思っています。

たとえば先日のウィルダーズ教授のレビューでは、「孤独感を表現するのがうまい」と言われましたが、私自身にはそのような意図はゼロなわけです。撮影中にそういう心理になったこともありません(むしろ興奮しているかも?)。でもそのように解釈されたのは納得ですし、うれしくもあります。

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2016年4月 6日 (水)

オランダのフォトグラファー事情の断片

4/1に冬青ギャラリーで、オランダのバス・ウィルダーズ教授の示唆に富んだトークを聞きました。そのごく一部を紹介します。

彼が教鞭をとる大学では、学生が、写真の技術やプレゼンの仕方はもちろん、最終学年では卒業後の経理のことまで勉強するそうです。大学外からの仕事の依頼を実際に受けてやったりもします。ステートメントは、入学審査のために全員が書いていて、入学後も写真を学んでいるのか物書きを学んでいるのかと思うほど文はかきまくるそうです。

また、オランダでは、写真家が自身をフォトグラファーでなくアーティストと呼ぶことが増えているそうです。「写真を使ってアートをやる人」というニュアンスのようです。

理由は「写真はもう誰にでも撮れるから」。問われるのは、写真を使って何をやるのか、何ができるのか。たとえば識字率がほぼ100%の日本では、読み書きは特別な能力ではないわけで、それを使って何ができるのかが問われるのと一緒ですね。

そして、彼の作品のサイズについて質問すると(西洋の作家にしては小さいと思ったので)、今回は日本人の好みに合わせた、とのお答え。

「所属する大学の学生は1年生のときからA0の出力は当たり前、じゃんじゃんプリントしてます。でもなんでも大きくすればいいもんじゃない。小さい作品、大きい作品、それぞれのよさがある」と結論づけたあと「でも小さいサイズの作品をつくっている有名な写真家はあんまりいないね」と付け加えていました。

そんなことを考えながら背景がボケるレンズで桜を撮っていたら、そういえば背景をボカした作風で世界的に影響力のある写真家も少ないな、とくに近年は、とか思ったりしました。

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2016年4月 2日 (土)

写真家のトーン〜写真展をつくる(14)

昨日ギャラリーに行ったら、ポストカードができあがっていました。こういうのは何度体験してもうれしいですね。

さて、今回の個展に向けてプリントを始めた当初、目指していたのはRobert Adamsのようなトーンでした。それは、非常にクリアで、どこかを強調したような感じが一切ないのに、見る人の心にじんわり残るトーン。

でも、「私らしい」と言われるようなトーンに戻るまで、ほとんど時間はかかりませんでした。やはり、性癖とでもいうのでしょうか、自分が落ち着くトーンのほうにぐーっと引かれていきました。それは一般には「黒い」と言われそうなトーン。Robert Adaまではいっしょの名前ですが、その後がmsかchiかで、えらく違うというわけです。

でも、意外に思われるかもしれませんが、何かを強調したり、特定の感情を表現しようなどということは、まったく意識していません。

それはもしかすると、たとえば文章を音読するとき、何かを強調したり、特定の感情を表現しようとしなくても、自分なりにしっかりと誠意を持って読むだけで、音が高い低いも含め、個性を持って聞こえる、何かを表現しているように聞こえる、ということに近いのかなと思ったりします。

そう考えると、Robert AdamsもRobert Adachiも、暗室での心持ちは、実はそんなに変わらないのかもしれません。

ところで、日本のフォトグラファーが写真の「明るい暗い」を必要以上に氣にするのは、明るい暗いという形容詞が、人の性格を表すことにも使われるからじゃないかと個人的には思っています。

仮に、明るい暗いと言うのをやめて、「明度が高い低い」という言葉を写真で使うようになれば、日本の写真ももうちょっと自由になれるんなじゃないかなと思ったりもします。

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