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2016年12月

2016年12月10日 (土)

自己と他者

言語とアートについて考える最終回は「self and others(セルフ&アザーズ=自己と他者)」についてです(敬愛する牛腸茂雄さんの代表作も同タイトル)。

これも初回同様、言葉が先なのか意識が先なのかはわかりません。ともかくも、言葉遣いにおけるセルフとアザーズの扱いが、アートにも現れるのではないか、ということについてお話ししてみたいと思います。

例えば、こんな会話があります。

鈴木「もしもし、わたくし鈴木と申しますが、田中さんいらっしゃいますか?」

佐藤「田中ですね。はい、おります。少々待ちください。」
   「田中さーん、お電話です。」

田中「はいはい。どちらさま?」

佐藤「鈴木さまからです。」

田中「お電話代わりました、田中です。」

鈴木「田中、久しぶり。おれだよ。鈴木。」

田中「おぉ、鈴木。げんきか?」

鈴木「げんきげんき。久しぶりに東京に来たから電話してみた。」

田中「そうか。もし時間あるならうちの会社に寄りなよ。飯でも食おうぜ。」

この会話の中に、日本語の特徴的な点がいくつか出てきます。

1つめは、一人称を使い分ける点。

鈴木さんは、はじめに「わたくし」そのあとに「おれ」と自分を指して言っています。このように日本語の一人称は、状況や立場に応じて変化させて使います。

2つめは、自分の立ち位置に応じて二人称・三人称の言葉のモードを替える点。

佐藤さんは、電話をかけてきた鈴木さんに対しては、同じ会社に属する田中さんを「田中」と呼び捨てにし、目上の田中さんを呼ぶときは「田中さん」としています。

3つめは、自己や他者の「場所」が、人格のように扱われる点。

田中さんは、電話のかけ主を「どちらさま」と呼んでいますし、自分の会社を「うちの会社」と呼んでいます。

これらは、例えば英語なら、それぞれ「who」、「my/our company」です。このような文脈で「どちら=where」、「うちの=in/inside」が使われることはありません。

以上3つの例から言えることは、日本語では、自分や他人がどこに属しているか、「場」が大切にされるということです。自己が他者と比べて「上にいるか下にいるか」、「うちにいるかそとにいるか」で、言語のモードをかえます。

つまり、言葉の上での自己は、絶対的な自己ではなく、状況や立場に応じて変化させる「相対的な自己」です。

私たちはこういうことを日常の様々な局面で瞬時に判断し、「自己」を選び、言葉を選んでいます。それができていないと、「場をわきまえない」「身の程知らず」と、ここでもやはり属している「場」が問われます。

大学生の就職活動アンケートなどでも、「何の仕事がしたいか」以上に、「どこの会社に入りたいか」が面白がられるのも同様の理由からかもしれません。就職後の職種よりも、その会社が何業に属するかということに興味が集まるのも同様です。

ところで、このように普段は自己を扱っている日本人ですが、アートをやるとなると、そこに西洋の「近現代自我」の考え方が入ってきます。

すると、ちょっとした混乱が起きます。

なぜなら、日常生活では場に応じて自己を変化させること(相対的)がよしとされているのに、アートでは、個人のアイデンティティ(絶対的)を確立することが求められるからです。

仕事柄、多くの「アーティスト志望者」と接します。そして、その多くが悩んでいます。私はその悩みの根源的なところに、この混乱があるように感じています。

言い換えればこのようなことです。

「今の自己を変えることでアーティストという他者へ変身したい。」

例えば講評会などでの講評や、先輩から後輩へのアドバイスなどにおいても、初めは作品についてだった批判が、次第にその人の人格にたいする批判になっていくことを経験したことはないでしょうか。これももしかすると、自己は変えられる・自己を変えて適応することがよしとされているこの文化の一側面なのかもしれません。

また、こういう悩みもあります。

「自己と自我の間にギャップがあるように思う。」

必要に迫られて変化を続け、演じ続ける「自己」の奥に、変えることのできない「自我」がある感覚です。その結果、「自分探し」などという、およそ日本的な冒険が行われることになります。

これらの悩みは、西洋で接するアーティストたちの悩みと、微妙だけれども何かが決定的に違うように感じています。

でも私個人は、このような悩める日本人アーティストが、無理して自我に立脚したアートをつくる必要はないと思っています。変化する自己、自我から乖離した自己によるアートをつくればいいのです。

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2016年12月 7日 (水)

文字とアート

シリーズの2回目。今回は文字について考えてみます。

日本語にはさまざまな特殊性があって、その1つが「漢字」です。私は(あくまで仮説ですが)、文字、とりわけ漢字が、日本人にとってのアート(視覚芸術)に影響を与えているのではないかと思っています。

大多数の文化で、文字が誕生するのは話し言葉よりも後です。日本では文字を使うようになって二千年くらいと言われています。子どもが先に覚えるのも、話し言葉が先です。

そういう意味で言語は、話し言葉の体系の上に文字が乗っかっているわけですが、識字率が高くなった現代では、その逆のこともときどきあるようです。

漢字は現在、中国語と日本語以外にはほとんど使われていません。

中国語と日本語の漢字の違いは、表記や発音にあるのはもちろんですが、日本語における「読み方の多さ」が、その最たるものではないでしょうか。

中国語では1字につき、読み方のバリエーションがほとんどありません。ところが、日本語の漢字には、多くの場合、1通り以上の「音読み」と「訓読み」がそれぞれ存在します。

例えば(へんな例ですが)、手帳に「日本語で日曜日の日程を説明する日」と書き込むとします。すると、わずかこの1文の中に「日」という字の5通りの読み方のバリエーションが出てくるわけです。

読み方だけでなく意味においても(語源までさかのぼらなければ)、この1文の同じ文字に、3通りの意味または使用目的(国の名前、曜日の名前、日にち)があるのです。

これが、日本語のむずかしさであり、豊かさでもあります。

さて、そんな漢字を見たとき、脳はそれらをどう扱っているのでしょう。

日本語を読む場合、脳は違う2カ所を同時に使っているそうです(詳しくはこちら)。

漢字は表音文字なので、「図像」として認識されます。

ひらがなカタカナは表音文字なので、「音声」として認識されます。

日本語を読むとき、脳はそれらを同時に行うという高度な処理をしています。

そのうえ、漢字という図像においては、先ほどの例のように、文脈に応じた「正しい」読み方とその意味を、瞬時に脳内の引き出しから出して当てはめるという、きわめて高度な処理を行います。それを学習によって無意識にできるようになるまで高めるのが日本の学校教育です。

ところで、私の限られた体験から話すと、他の文化圏の人々に比べ、日本語環境で生まれ育った人たちのほうが、抽象的なアート作品を「わからない」で片付けてしまう割合が多いように感じています。他の文化圏では、わからないなりに、これはこういうことでないかと鑑賞者の間で意見交換が始まったりします。

それは日本人のアート鑑賞能力が低いからなどという声を聞くことがありますが、私は必ずしもそうは思っていません。

この場合の「わからない」は、おそらく「正しい意味が読み取れない」「どう読むのが正解かわからない」ということからくる不安なのだと思っています。

日本では幼い頃から徹底的に、「漢字という図像」を見たとき、文脈に合わせた正しい意味と読み方を脳内バンクから文字通り瞬時に引き出す訓練をしています。

そういう人にとって、目の前の「アートという図像」の正しい意味がわからない、正しい読み方がわからない、文脈が読み取れないというのは、とても不安なのではないでしょうか。アートを認識する脳の部分と、漢字のときの部分が近い人ほど、不安(または理解不能と片付ける)になるはずです。

アーティストがいくら「自由に解釈してくれていいんです」と力説しても、漢字学習は本当に徹底していますから、瞬時に正解を求めたくなるのも無理はありません。

以上は鑑賞するときの話でしたが、こんどはつくる側から考えてみましょう。

漢字については、新たにつくって増やすことは、現代日本では御法度です。漢字という図像は、外国から持ってこられ、歴史を経て正しいとされているものだけの使用が許されています。部首の違いや、トメハネなど細部の誤差も許されません。

それに対し、新しい読み方や熟語など、「応用」は、かなり自由に行われています(キラキラネームやネット上の俗語などもそうです)。

このことは、日本が図像の「創造」より「応用」が得意な文化であることと無関係ではないでしょう。

一方、西洋の言語はどうでしょうか。

西洋には漢字のような表意文字はなく、現代ではほぼ全域でアルファベットが使用されます。しかも、ひらがなカタカナのような1文字1音節ではなく、子音と母音が分かれているので、ほとんどの場合、1文字では読み方や意味を表しません。

つまり、文字という「記号の組み合わせ」によって、音と意味を認識します。マトリックスのような抽象的な思考をするのに適する言語と言えます。

ここにも、西洋人と日本人の生み出す視覚芸術の違いのヒントがあるのではないでしょうか。

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2016年12月 4日 (日)

アクセント

言語がアートに与える影響は案外大きいのではないかと思い始めています。

インターネットの発達で、情報の世界地域格差が少なくなっているのにも関わらず、つくりだされるアートにはどこか決定的な地域差が残っていると感じていて、その理由の1つが(あくまで推測の域は出ませんが)、言語なのかもと実は考えているのです。

ところで、十代でアメリカに住んでいた時分、Englishの授業で先生にこんなことを訊かれました。

「Hiroshimaのアクセントはどこにあるの? ヒロ?それともシマ?」

そんなこと考えたこともなかったし、実際どっちでもないので、説明に窮したことを覚えています。

このように、英語に限らず、西洋の言語の多く(すべて?)にはアクセントがあります。アクセントは単語にあるだけでなく、文にも存在します。英語の場合は、その文の最も伝えたいところにアクセントがきます。しかも、1単語、1センテンスに、それぞれ原則1カ所しかつきません。

例えば、ピコ太郎さんのPPAP。

I have a pen. I have an apple.

「持っているもの」を主に伝えたいのであれば、

I have a pen. I have an apple.

と、持っているものにアクセントが来ます。

「私が」持っていることを伝えたいのであれば、

I have a pen. I have an apple.

となります。

英語を話しているときは、意識無意識にかかわらず、常に「強調すべきところ」を決めています。ところが、日本語を使っているときにアクセントを意識することはほとんどありません。むしろ、弁論大会のようなメリハリをつけたしゃべり方を「胡散臭い」と思うように、アクセントを避け、ピークを分散させる傾向があります。

言語は文化であり、意識を形づくります。このように日常的にアクセントどう扱っているかが、言葉の枠を超えて、美意識にも影響を与えているのではないかと、個人的に推測しているのです。

アートにおいて、仮に英語的つくり方と日本語的つくり方があるとすれば、作品のどこかにアクセントを置くつくりかたと、ポイントを分散するつくりかたに分けることができるかもしれません。

アートに限らず、ビジュアル・マーチャンダイジング(VMD)と呼ばれる店舗ディスプレイの考え方にも同様のことがあります。アメリカを中心とするVMDの発想では、どこかに視覚的ピークをつくることが大切な要素の1つとされます。それに対して日本的(東アジア的)ディスプレイでは、様々なものがまんべんなく主張するように配置することが好まれるように感じています。

日本製デジタルカメラの機能が横並びでてんこ盛りになるのも、同様の理由からでしょうか。英語圏でつくられているデジタルカメラがないので安易に比較はできないのですが、GoogleやiPhoneのようなアメリカ発のものが、あのようなインターフェイスを採用しているのを見る限り、もし存在したら、の想像はできます。

鶏と卵のように、言語が先か意識が先かはわかりませんが、共通項は見出せるのではないでしょうか。

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