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2017年1月

2017年1月27日 (金)

俳句と写真

前回のラルフ・ギブソンの記事に関して、ツイッターを経由して読者の方からこのような質問をいただいた。「想いは写ると思いますか?」

私の答えは「実体がないものは写らないと思います。解釈によって推定されることはあるかもしれません」。

想いというものは、「物体」として目の前に存在していない。だから写真に写ることはない。写真には実体のあるものだけが写るという、きわめてシンプルな理由。

だが、見る人が、その2次元のイメージとして写し取られた3次元の物体の並びを見て、想いが写っているように見えると解釈するかもしれないし、しないかもしれない。そういうことだと思っている(私見)。

もっとも、一説によると人間に見えるのは実際に存在するものの4%程度らしいので、もしかすると見えていないだけで想いにも実体があるのかもしれない。

ところで先日、カロタイプで行われた橋本有史先生による「写真家のための俳句入門」を受講した。久々の「教わる側」。非常に有意義だった。

その後半で、実際の句会を体験した。そこでは講師も含めた全員の句が匿名で扱われ、それにたいして全員が票を入れる。橋本先生曰く、有名な先生の句が総スカンを喰らったり、けっちょんけちょんに言われることもあるという。

最後に選者がなぜそれを選んだかを、解釈も含めて述べる。作者が語る前に選者が自由に解釈する。

写真では反対に、作者がその解釈を先に説明をすることが多い。それは写真が、いつどこでだれがなにを撮ったかという記録性のある媒体であることとも関係するのだろうが、ときに、作者が見る人に解釈を押し付けようとしたり、逆に見る人が作者に自分の見方を押し付けようとしたりする場に出くわすことがある。

また俳句では、その制限された文字数も手伝って、説明的な言葉、回りくどい言い回し、常套句などが敬遠される。俳句でも、実在するものの描写が重視される。想いは実体のないものとして扱われ、解釈に委ねられる。

俳句のこのようなありかたは、写真においても有効なのではないか。それはまさに、先日からここで書いている、「語りすぎない技術」のひとつである。

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2017年1月25日 (水)

ラルフ・ギブソンの考える個性

昨日の記事で、ラルフ・ギブソンにとっての写真は、被写体ではなく、ものの見方であるということに触れた。

そのラルフ・ギブソンがTEDで、「デジタル時代のビジュアル・アイデンティティ」という内容で話している。ビジュアル・アイデンティティという聞き慣れない言葉は、「その人にしか撮れない写真」と意訳できるだろう。

デジタルカメラの普及で誰でも写真が撮れるようになっている、しかしソフトウェアのせいで、誰がとっても同じように見える。そのなかで、その人にしか撮れない写真というのはなにか、という内容だ。

彼は、1枚の写真を撮るのに3つの要素があると言っている。それは「どのように撮るか、何を撮るか、どこにカメラを構えるか」。

その3番目の「どこにカメラを構えるか」に、個性があるというのだ。昨日の投稿と共通する内容である。

「どの偉大な写真家の作品を見ても、その人の『視覚的署名』があるのがすぐわかる。カルティエ=ブレッソンやロバート・フランクの写真は、解説を読まなくても、駐車場の反対側から見てもわかる。

ではこの『視覚的署名』はどうやって形成されるのか。いくつかの可能性がある。眼科の専門家によれば、眼球には指先や性器より多くの神経が通っている。眼球は自己モニター可能な部位で、その後ろにある脳が実際に処理するよりも多くのものを見ることができる。」

「視覚的署名」というのは、西洋にはその人本人であることを証明するサインという慣習があるが、その写真版のことである。偉大な写真家の作品には「写真のなかにその人のサインが書いてある」ということ。そして、その署名は、写真家(の眼球)がものをどう見ているか、によって書かれるというのだ。

日本では、個性を作品に出そうとすると、その人の「想い」を投影しようとする人が多いように思う。しかし、ラルフ・ギブソンは、「眼球がどう見ているかに個性が出る(意訳)」と言っているのだ。

余談だが、面白いのは、日本と西洋の文字にたいする考え方の違い。日本では「習字」などを通して、美しいとされている文字を誰もが同じように書けることを目指すのに対し、西洋では、文字にはその人の個性が出るから、個人を識別するために文字を書く(サインする)のである。

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2017年1月24日 (火)

ラルフ・ギブソンにとって大切なもの

「語りすぎない技術(art of understatement)」を用いている写真家と言えば、ラルフ・ギブソンがその一人だ。

彼はいろんなところで写真の「抽象化」について話している。だが、ボカしたり、曖昧にすることなく、写るものをむしろシャープに描き切る。

抽象的な印象を見る者に与えるのは、被写体の選び方、フレーミング、そしてコントラストにおいて、語りすぎない写真をつくっているからだろう。以下のビデオでは、そのヒントになるようなことを語っている。

「私は常に『なんでもないもの』の写真を撮りたいと思っている。すごいシャッターチャンスを待つわけでもない。驚きもない。私が撮りたいのは、私の『認識行為』が映り込んでいる写真。被写体はあくまで中身(コンテンツ)をサポートするためのもの。私にとっての写真とは、中身であり、被写体ではない。」

言葉を補えば、ここで言う「中身」とは、彼の認識行為、つまり「ものの見方」のことだろう。自身がどう世界を見ているかが彼の写真には大切なのであって、何が写っているかは関係ないということだ。

被写体が主役の写真では、その被写体が何であるかを伝えるために、どうしても作者は「語りがち」になるが、中身が主役の写真では、ちょっとちがう。

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2017年1月23日 (月)

アルヴォ・ペルトの語り口

昨日の記事で述べたオーラヴル・アルナルズの「語りすぎない技術」。彼は20代でそれを学んだそうだが、私の20代を振り返ってみると、技術的に不器用だったせいもあって、むしろどうやったらもっとたくさん語れるかを懸命に考えていたように思う。

同じ語りすぎない作風でも、「言いたいことはたくさんあるが削り落としている」のと、「たくさん語っているつもりなのに語れていない」のとでは、中身(とその密度)がずいぶん違う。

その意味では、初めから言葉少ない作家でやり続けるより、キャリアのなかのある時期に、自分がどこまで饒舌になれるか、徹底的に語れるところまで語ってみるのは、作家にとって望ましいことだと思う。

例えば、アルヴォ・ペルト。2つの代表作で音数がずいぶん違う。

上の「タブラ・ラサ」は、とくに後半、大胆かつ緻密なオーケストレーションになる。ペルトの楽曲のなかで最も音数が多いもののひとつ。

下の「鏡の中の鏡」は、非常にミニマル。

これだけの少ない音数(しかも調もいたって平凡)で聴く者を惹き付ける力学は、どこから生まれるのだろう。私の永年のテーマである。

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2017年1月22日 (日)

語りすぎない技術

私の好きな音楽家の一人に、アイスランドの若い作曲家・ピアニスト、オーラヴル・アルナルズ(Olafur Arnalds 英語読みでオラファー・アーノルズなどと呼ばれることも多い)がいる。そのシンプルで透き通るような曲調で世界中にファンがいる。アコースティックとテクノのバランスもいい。


そんな彼の「20代で学んだ5つのこと」と題するインタビュー記事(英語)がある。

その「作曲について」のところで、「語りすぎない技術(art of understatement)」ということを言っている。

「(20代では)語りすぎない技術を学んだと思います。昨日デビュー10周年記念にファーストアルバムを再リリースしようかという話になりました。30歳になる年でもあるので。でも、聴き返すのがちょっと怖いんです。もう何年も聴いていないですから。当時を振り返ってみると、大きいことを表現したいときは大きい音楽にして、悲しいものをつくりたいときは琴線に訴えるようなことをやっていました。でも、今ならそこまで言い切らないようにやるでしょう。こっちのほうがむずかしいんですが、うまくいったときはよりパワフルになります。

プロデューサーの仕事でもそうでした。今はもうあんまりやってないんですが、以前はいろんなアーティストのレコードをプロデュースしてました。あるとき、バンドの名前は伏せますが、そのレコードでの僕のプロデューサーとしての仕事は、ミュージシャンに『演奏しないように言うこと』に尽きました。そのアルバムで僕がやったことと言えば、9割がそれ。はじめはすべての曲ですべての演奏家が演奏していたので、音楽がいっぱいいっぱいで緩急がない。なので僕が『じゃあこの曲ではあなた1人。ほかの皆さんはお休み。この曲はこの二人。ほかの人たちはお休み。ああでも7人もいるのか〜』と。彼らにとってはしんどかったと思います。」

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2017年1月21日 (土)

祈るようなイエスタデイ

祈りには様々なかたちがある。作曲家の故・武満徹さんは常々(彼にとって)音楽は祈りだと言っていた。

武満さんは私の「青春のアイドル」の1人。修業時代に鎌倉に住んだのは、彼の真似でもあった。

独学で作曲を学んだ武満さんは、若いころピアノを買えず、紙の鍵盤で音を想像しながら弾き、街を歩いていてピアノの音が聞こえてくるとお願いして弾かせてもらったという。専門教育を受けてこなかった私は、その姿に自分を重ねてよく自らを励ましたものだ。

さて、武満さんはオーケストラ曲がとくに有名だが、個人的にはギター曲も好きだ。「イエスタデイ」はもちろんオリジナルではないが、武満さんの美意識がよくわかる、詩のようで、祈るようなアレンジだと思う。


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2017年1月20日 (金)

詩と言語

一説によれば、ある言語で詩を理解できるなら、その言語をマスターしていることになるという。それくらい詩は、その言語が使われる文化独特のニュアンスに依る部分が大きいということだ。

例えば「古池や蛙飛び込む水の音」という芭蕉の句を英語圏の人に英訳させると、多くの人が蛙を複数形のfrogsと訳すという話を聞いたことがある。日本人なら、ほとんどの人がa frogと訳すのではないだろうか。

しかし、高浜虚子は「選もまた創作なり」と言った。俳句では読み手が解釈することもまた創作ということだ。そういう意味では、蛙が単数であろうと複数であろうと、読み手の脳裏で独自の解釈=創作が行われていい。

教えることをするようになって、言葉の解釈・認識というものが、本当に人それぞれなんだということがよくわかった。おそらく大教室の講義ではそのようなことには氣づかなかっただろう。だが、少人数で接していると「おれそんなこと言ってないし」ということがよく起きる。

例えば、上記の「言葉の解釈・認識というものが、本当に人それぞれなんだということがよくわかった」と話したとする。

それを一字一句違わず記憶する人もいれば、「言葉の使い方はひとそれぞれなんだ」と、若干単語を入れ替えて聞く人もいれば、言葉をことばでなく「印象」で聞く人は「人は十人十色の言葉を使うんだ」くらいに曲解(自分の都合のいいように解釈)したりする。

課題を出したりすると、その文言を広い意味に解釈する人もいれば、すごく狭い意味に捉える人もいる。

言葉のパワーというのは常に、誤解や解釈の違いから生まれるリスクと背中合わせなんだと実感する。

ところで、よく「音楽は世界共通言語」みたいなことが言われる。言葉には通じない人がいるが音楽なら誰にでも通じるということ。しかし、個人的にはほとんどそうは思っていない。

20代のあるとき、国際イベントのダンスパーティでDJをしたことがある。そのとき、当時はやっていたダンスミュージックに、世界中の人が踊ってくれるかと思って流したら、ラテン諸国の人々が皆ブーイングをしながら脇にはけた。

彼らが代わりにこれらを流せと持ってきたCDは、ラテン音楽ばかり。それらをフロアに流すと日本やヨーロッパの若者がさーっとはけて、ラテン諸国の若者は熱狂的に踊った。

当然といえば当然なのだが、そこまで好みが違うものかと思った。音楽も言葉同様、異文化間では通じないことがあると実感した夜だった。

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2017年1月19日 (木)

詩心

物語と詩の違いは何だろうか。ひとつの大きな違いは、物語には物事が変化する大きな時間の流れがあるのに対し、詩にはない(少ない)ことがあるだろう。

物語のなかでは、登場するものが、時間の流れとともに行動し、変化する様が描かれる。対して詩のなかでは、1つの感情、1つの情景、1つの体験が(一般的には)描かれる。

その意味で、詩は音楽に似ているし、また、写真とも似ている。

ある人が、現代では詩心を最も表現しやすいのが写真だと言っていた。詩人が生きづらい現代は、たしかにそうかもしれないと思う。

しかしそんななかでも、写真にはないが詩にはあるのが、「言葉の力」であり、私はそれを実感する。詩は、具体的な言葉をもって抽象的な感情を人の裡に喚起する。あるいはその逆。

以下、私の好きなウィリアム・ブレイクの詩をご紹介したい。

** *    *     * *       *

The Garden of Love

By William Blake

I went to the Garden of Love,
And saw what I never had seen:
A Chapel was built in the midst,
Where I used to play on the green.

And the gates of this Chapel were shut,
And Thou shalt not. writ over the door;
So I turn'd to the Garden of Love,
That so many sweet flowers bore.
And I saw it was filled with graves,
And tomb-stones where flowers should be:
And Priests in black gowns, were walking their rounds,
And binding with briars, my joys & desires.

愛の庭

ウィリアム・ブレイク

愛の庭に行くと
見たこともないものがあった。
かつて遊んだ緑のまんなかに
教会が建てられていた。

教会への門は閉じられていて
扉に立ち入り禁止と書いてあるので
甘い花が一面に咲く
愛の庭に向かった。
見ると
花があるはずの場所に
墓がたくさんあるではないか。
すると黒いガウンを着た牧師が見回りにやってきて
私の喜びと欲望をイバラで縛った。

(安達ロベルト訳)

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2017年1月18日 (水)

詩と音楽

一般の人々にとって、詩が身近な存在でなくなって久しい。

ウィキペディアのこのページを一目見れば、詩がどれほど人類にとって大切な存在でありつづけてきたかがすぐにわかる。「詩」と一言で括ってしまうのに抵抗があるほどのボリュームである。

しかし、現代の我々はどうだろう。読者の方で、詩を日常的に読んだり書いたりする方はどれほどいらっしゃるだろうか。現代日本で一般人が詩に日常的に触れるのは、歌の歌詞と川柳くらいかもしれない。

これはあくまで私の推測だが、この社会での詩の存在感は、録音音楽の普及と反比例しているのではないか。

かつて音楽がすべて「生」だった頃、つまり録音再生の技術がなく、音楽は演奏されるその場に居合わせない限りは聴くことができなかった頃、詩が、いま我々が録音音楽を聴くときにする体験と近いものを提供していたのではないだろうか。

もちろん大昔から音楽はあちらこちらにあって、海辺で畑で路上で人々は音楽を奏でた。だが、いま我々が誰にも邪魔されることなくヘッドフォンで「個人的に」音楽を聴くような体験を、かつて人々は一人本を開き、詩で味わっていたのではないか。

もう少し前、印刷がそれほど一般的でなかった時代まで遡ると、我々がいまホールに大枚を払って行くコンサートで聴く音楽のように、貴重な書物にある詩を味わっていたかもしれない。

詩で得られる体験は、音楽体験に似ていると思う。抽象的で、感情に深く関わる。

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2017年1月17日 (火)

作品の旬

これだけ世界にアート作品があり、名作と呼ばれるものが鑑賞しきれないほどあるのに、それでもなぜ新しい作品をつくりつづけるのか。

それは(作者がつくりたいから、という理由のほかに)、生き物に寿命があるように、作品にも旬だったり賞味期限だったりがあるからだ。

ビートルズの登場をリアルタイムで体験した人たちが、それがどれほど衝撃的だったか、彼らの音楽がどれほど素晴らしいか語るのをよく聞く。私もビートルズは好きだし、音楽は素晴らしいと思う。しかし、私(たちの世代)はビートルズを、残念ながらリアルタイム世代と同じようなショックと感動をもって感じることはできない。なぜなら、彼らの体験はビートルズの「旬」であり、我々の体験はそれが過ぎ去ってからのものだからだ。

例えばリスト。いま聴けばリストのピアノ曲は端正で美しい、しかも高度な技術を要する印象の曲に聞こえるが、「旬」の頃は、サロンでご婦人方がキャーキャー熱中して失神するくらいだったとか。今でいうこんな感じだったのだろうか。

作品の旬、流行りの理由を論理的に説明することはむずかしい。新しいということをのぞけば、その作品にそのとき特別なエネルギーがあったとしか説明できない。エネルギーの強さというのは、分析では説明できない要素である。

旬を過ぎた作品には、旬の頃の興奮を感じなくなる。逆言えば、食べ物と同じように、旬のときにしか味わえない特別な感動もある。

だからこそ作家は、つぎつぎに新しい作品を生み出すのである。

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2017年1月16日 (月)

創作とグリット

「作品」と一口に言っても、一筆書きから複雑、大規模なものまである。どちらのほうが優れているというわけでなく、それぞれの魅力がある。

しかし、時間のかかるほうの作品は、挫折せずに最後までモチベーションを持続させてつくりつづけなくては完成しない。

そのために必要なものが、前回触れた「グリット」。グリットとは、日本語にすると「やりつづける力」という感じだろうか。

例えば前々回引用したチャイコフスキー。インスピレーションがあってもなくても日々懸命に働きつづけなくてはいけないと言っているのは、クラシック音楽の作曲の宿命。曲の発想についてはインスピレーションに依るところが大きい作曲も、殊オーケストレーション、譜面書きとなると、かなりの部分が機械的な作業となる。

チャイコフスキーくらいの偉大な作曲家になるとどれくらい弟子に任せていたのか分からないが、オーケストレーションや譜面書きは、非常に長い時間、地味にコツコツと書いていく作業であるから、その間には派手なインスピレーションはむしろいらない。

同じく前々回引用した村上春樹さんは、「短編や中編で実験したことを長編に活かす」など、書き手にとっての短編小説と長編小説のちがいをいろいろなところで語っている。同じように、浅田次郎さんもここで以下のように語ってる。

「長編と短編では作家が使う筋肉が違います。マラソンランナーと短距離走者の体つきが違うように、違う職業と言ってもいいくらいです。僕は両方好きで書いています。それは、双方のトレーニング効果があるからです。短編を書き続けているから、引き締まった筋肉で長編を構成していくことができるんです。」

作曲にせよ文筆にせよ、それなりの規模の作品を完成させるには「グリット」が必要となる。

その「グリット」、日本語で「やりつづける力」などと言うと、どうしても根性、努力、みたいなニュアンスを伴うが、ここにある茂木健一郎さんの言葉が参考になるだろう。

「グリットには、『やる気』はあってもいいが、むしろなくても大丈夫、と考えていた方が、実践することができる。むしろ、『やる気』がないから私はできないんだ、というのは、やらないこと、続けないことの言い訳にしかならないことが多い。

『やる気』があろうがなかろうが、とにかく続ける、という粘り強い態度が、『グリット』にはむしろ向いている。毎日、燃える闘魂で10年も20年も続けるわけには行かない。むしろ、淡々と、やるべきことをやることで、遠くに行くことができるのである。

『グリット』は、むしろ、それを実践している人にとっては、呼吸をしているのと同じで、だからこそ、フラットに、ずっと続けることができる。一方、いわゆる『意識が高い』ことを自分に強要すると、かえってそれが邪魔になって、息切れして、続けることができなくなるのである。」

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2017年1月15日 (日)

持続するモチベーション

インスピレーションについてのつづき。

では、写真家はどのようにインスピレーションを得るのだろうか。私が関わってきたあらゆるアートのうち、写真ほど簡単に作者(私)がインスピレーションを得られる媒体を知らない。どうすればいいのか。旅に行けばいいのである。

インスピレーションというものが、「これをつくりたい!」と作者を一種の興奮状態にさせるものだと仮にすると、瞬間の画像を取り込むということが写真家の仕事であれば、「これを取り込みたい!」と思わせてくれるものが写真家にとってのインスピレーション(俗に「写欲」と呼ばれているもの)である。

旅に行くと、見るものすべてが新鮮だ。脳は新しいものを見るとそれを記憶しようとする。すると脳は活性化し、一種の興奮状態になる。撮り手はその興奮に忠実にシャッターを押し続ける。

ところが、それだけでは「作品」としては成立しない。選び、現像し、プリント、編集と作業は続く。展覧会にまで発展する場合もある。そこには持続するモチベーションが必要だ。

ところで、前回紹介した3人のアーティストは、ジャンルは違うが(作曲、小説、絵画)、作品は共通して「緻密」。仕上げるのに膨大な時間とエネルギーを必要とする。

作品を構想をすることと、それを実際に完成度高く仕上げることとの間には、天と地くらいの違いがある。壮大な作品の場合はとくにそうだ。では、彼らが継続して作品と向かい合い、フィニッシュまでもっていける理由は何か。

それが、いま注目されている「グリット(grit)」という能力である。この3名に共通しているのは、彼らがグリットを持っているということ。グリットについては次回。

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2017年1月14日 (土)

アーティストとインスピレーション

創造的なアーティストは、どのようにインスピレーションを得ているのだろうか。

いろいろなアーティストがいろいろなことを言っているが、どうやらインスピレーションを得るための黄金法則はないようだ。それでも多くの人が共通して、考えて考えて考え続けて、ふと力が抜けたりあきらめた頃にひらめく、というようなことは言っている。

しかし、なかにはインスピレーションに頼らずに創作しているアーティストも多くいる。

チャイコフスキーは「自己を大切にするアーティストならば、いまは気が向かないなんて口実にあぐらをかいてはいけない。(中略)とくにインスピレーションがないときでも私は、毎日懸命に働いている。もしやる気が出ないことを正当化してしまったら、おそらく私は永い間何もしなくなってしまうだろう」と述べている。

村上春樹さんは「とにかく自分をペースに乗せてしまうこと。自分を習慣の動物にしてしまうこと。一日十枚書くと決めたら、何があろうと十枚書く。(中略)今僕がそう言うと『偉いですね』と感心してくれる人がけっこういますけど、昔はそんなこと言ったら真剣にばかにされましたよね。そんなの芸術家じゃないって。芸術家というのは気が向いたら書いて、気が向かなきゃ書かない。そんなタイムレコーダーを押すような書き方ではろくなものはできない。原稿なんて締め切りがきてから書くものだとか、しょっちゅう言われてました。 でも僕はそうは思わなかった。」と述べている。

チャック・クローズは「インスピレーションはアマチュアのためのもの。そうじゃない我々は、つべこべ言わず仕事をするだけ。」と言っている。

私自身を振り返ってみても、締め切りも制限もなくいろいろ構想しているときは、あまりろくなものはつくれない。というか、つくるまでに至らないことが多い。満足度が高いのは、締め切りとフォーマットが明確にあって、それに向けてつくるとき。震えるようなインスピレーションは確かに必要ではあるが、待っていてもなにも事は進まないのである。

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2017年1月13日 (金)

編集と制約による創造

創造性は、アーティストのためだけのものではない。あらゆる仕事、立場の人の役に立つ。

さて、創造とは、簡単に言えば、ないものをつくること。だが、必ずしも、皆があっというような発明するとか誰も見たことのない作風の絵を描くといった、0(無)を1(有)にすることだとは限らない。

むしろ、「1+a=2b」のような、すでにある「1」と「a」を組み合わせると、「1a」でなくて「2b」になる、みたいなことのほうが多いと思う。「1」と「a」は、違うカテゴリーに属しているが、組み合わせると「2bになった!」となる。

例えば、アップルコンピュータの電源ケーブル。磁石で本体にくっついていて、引っ張ると離れる。これはスティーヴ・ジョブズが、ポットの電源ケーブルに着想を得たもの。ジョブズはまったく新しいものをつくりだしたのではなく、既にあるものどうしを組み合わせたのである。

演者であり、かつ劇作家としても数々の能を書いた世阿弥は「風姿花伝」で次のようなことを言っている。

「学問や才能に必ずしも恵まれていなくても、巧みに編集できれば良い能は書ける。」(水野聡・訳)

優れた能を書くのは、秀才や天才でなくても、編集能力さえあればできる、ということだ。「風姿花伝」ではその後、どのようなものを引用し、どのような言葉を使ったらいいかといった具体的なアドバイスが続く。

スティーヴ・ジョブズは、創造性とは「点と点をつなぐこと」と言っていた。それは世阿弥の言う「編集能力」そのものではないか。

また、自由に好きなようにつくっていいという無制約な状況は、創造に必ずしもいいとは限らない。むしろ、制約のあることがプラスに働くことがある。

世阿弥、シェイクスピアがそうだった。2人が活躍したのは大衆メディアのない時代。共に、形式、舞台装置、時間、劇場、情報といった、制約のなかにあって広く大衆にアピールする作品をつくっていた。制約があったからこそ、いきいきした創作ができていたように思う。

有名なソニーのウォークマンも、サイズ、価格を先に決めて、あのようなデビューになった。

これら例のように創造は、既にあるものをどう結びつけ、活用、工夫するかということだったりするのである。

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2017年1月12日 (木)

ことば以外の言語

先日、絶対音感についての動画を観た。私のような絶対音感のない人間からすると、それは驚きの能力であり、自分にはないことに劣等感を抱いたりもする。だが、ビデオの中でも断言されている通り、絶対音感は大人になってからでは身に付けることができない。

絶対音感はおそらくは、生まれつき誰もが持っている能力だ。

色で考えるとわかる。

可視領域にある「特定の光の周波数」を我々は「色の名前」で呼ぶことができる。広義の「絶対色感」である。それは周波数と呼び名を一致させる訓練を幼い頃から繰り返しやってきたからふつうにできる。なかには微妙な差異を言い当てたり、特色の混ぜ合わせの分量までわかる狭義の絶対色感を持っている人もいる。

対して、可聴領域にある「特定の音の周波数」を「音の名前(音階)」で呼ぶことができる能力が絶対音感であるが、ほとんどの人がその訓練をしないので、脳はその能力を不必要なものと判断し、人生のわりと早い段階で捨ててしまう。訓練をした子どもだけがその能力を「残す」。

加えて、幼い頃からクラシック、ジャズなど、情報が高度な音楽を聴きつづけ、そして楽器によって演奏している人にとって、音楽は「言語」になるという。

耳で聴き、楽譜という記号を読み、身体と楽器を使って人に伝えるように演奏するということには、人間の持つ様々な能力や感覚を必要とする。論理、記憶、色彩、意味、感覚、物語、感情、身体、精神。それらを包括的に使い、他者とも関わる。

絶対音感はもしかすると、音楽をそのように「言語」として身につけていない人には、それだけあってもかえって生活のじゃまになるかもしれない。

脳のシナプスは、6歳くらいでピークになると言われている。生まれてからそれまでの間に、昔よく見たシンセサイザーのように、脳内のあちらこちらで配線が行われる。その後の人生で必要だろうと思われる「言語」の基礎が習得されるのは、この時期である。

この時期に、情報が高度な音楽を自分の言語にすることができた人は、大きくなってからもその言語を使って、考えたり、表現したり、他人と関わることが自然にできるようになる。彼らはつまり、「音楽ネイティヴ」なのだ。もちろん、ことばと同じで、どのような環境でどんな音楽をたくさん聴いたかで、身に付ける語彙や文法が変わる。

このように考えると、私だけでなく、そういう音楽教育を受けなかったことを悲観したくなる読者の方もいるかもしれない。しかし、創造性と個性の観点から見ると、その必要はまったくない。

なぜなら、0歳から6歳くらいまでの間に、音楽でなくとも、もしなにかをたくさんやっていたとすれば、それがあなたの脳をつくり、「言語」になっている可能性が高いからだ。運動をたくさんやっていた人なら運動が、友だちとおしゃべりをたくさんした人や読書をした人ならことばそのものが「言語」になっているはずだ。

あなたはその時期、何に熱中してすごしていただろうか。

私自身を振り返ってみると、その時期はひとりで「考えている」時間、「想像している」時間がすごく長かった。

それに氣づいたとき、今でも私自身が、考えたり想像したりすることに、自由さと流暢さ、そしてある種のアイデンティティを感じられることに納得した。

しかし、想像力を測るものさしは私の知る限りない。IQはある条件のもとでのテストだから少しちがう。運動能力のように測れないし、ことばや楽器のようにそのまましゃべったり弾いたりすることもできない。だから、それを世界とシェアするためには、なにかしらの他の言語に翻訳しなければならない。

もっとも、どんなに言語が流暢でも、中身がなければ話はつまらないということは、言うまでもない。

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2017年1月10日 (火)

こころのクセとレイヤー

昨日、横浜元町で開催された「ヨーガ&禅 -心を整えるマインドフルセッション-」(川野泰周先生・今村翠先生)というワークショップに参加し、多くの新鮮な氣づきを得た。なかでも「こころのクセ」「意識のレイヤー」には、はっとした。

参加のきっかけは川野・今村両先生に昨年知り合い、感銘を受けたから。

川野先生は禅寺の住職でありながら精神科医であるという方。アメリカから逆輸入のようなかたちで注目されている「マインドフルネス」の、日本の第一人者である。

今村先生はインドでヨガと出逢い、本場のヴァイブを我々に親しみやすいかたちで伝えている方。

ワークショップはまず川野先生のマインドフルネスについてのレクチャーから始まった。現在アメリカを中心に「マインドフルネス」の実践が、個人にとどまらず、医療、ビジネスなどで一定の効果を上げていることは、もっと知られていいだろう。

その後今村先生のヨガに。私は10年以上ぶりのヨガ。世の中でヨガブームが起きる直前くらいに六本木のスポーツクラブで、アメリカ人の先生から習っていた。彼女もやはりインドで学んだ人で、ヨガを習いたいというより、彼女から感じるエネルギーが面白いからその場にいたかったという感じで通った。だから、今村先生のヨガも私にはすごく入りやすかった。

動き始めるとまず、10年以上前と身体の動きが違うことに驚いた。もっと動けなくなっているかと思っていたら逆で、当時より身体は柔らかくなっていた。ヨガのようなことはその間まったくしていなかったが、日常的に身体運動はしているし、メディテーションも毎日やっている。そういうことが影響したのだろうか。

今村先生のヨガで氣づいたのは、私のなかにある「こころのクセ」。

それは、やりながら「このポーズは正しいのだろうか」と考えたり、先生が回ってきているのが分かると「少し緊張する」などのこと。つまり「自分は正しくパフォームしているか不安になる」というクセだ。そのクセは私の心身を硬直させる。今村先生のヨガでは、正しいフォームでやるかどうかにはまったくフォーカスされていなかったのにもかかわらず、である。

途中からそれに氣づいて、正しさよりも「心地よさ」や「エレガントさ」を優先するようにしてみた。だから後半はすごく氣持ちよかった。

しかし、このクセはどこで身につけたのだろう。心当たりがあるとすれば、永年やっていたスポーツだろうか。いや、ちがうかもしれない。

その後、川野先生主導による禅に移行した。先生は我々に抵抗が出ないようにするためか、メディテーションという言葉を使わず「座禅」とそれを呼んだが、中身はメディテーションそのものだった(英語では一緒なんだけどね)。座って呼吸に意識を向け、雑念が湧いてきたらそれを否定せず、また呼吸に意識を戻す。

そして、座禅が終わろうとしているとき、ひとつの氣づきがあった。意識の中で、音楽と言葉が別な階層にあるということがはっきりとわかったのだ。

禅の前後に、音楽と、両先生による美しいマントラと声明があった。また、雑念が言葉というかたちで心に浮かんだり、先生の言葉もときどき聞こえてくる。

だが、同じ「聴覚」に属するものであるのにもかかわらず、音楽を感じる意識のレイヤーと、言葉を感じる意識のレイヤーは、別なところにあった。意識の中では「層」に分かれていた。

両者が違う階層にあったのは、考える言葉や聴く言葉には意味があり、音楽には意味がなかったからだろうか。意味付けの有無が階層を分ける。

だとすると、理解できない言語だったり、歌詞のついた音楽やメロディアスな音楽だったら、また違うことを感じたはずだ。

だが、いまこの文章を書いているとき、両者のレイヤーの違いをはっきり感じることはできない。それは、ヨガと禅により、身体と意識が一体化し、研ぎすまされたからこその氣づきだったのだ。文字通りマインドフルな体験をした。

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2017年1月 7日 (土)

2/14ライヴ「Pray」〜言葉と音楽による

世界に魅せられたものたちのライヴ 6

Pray

安達ロベルト(ピアノ)robertadachi.com
武村貴世子(朗読)https://twitter.com/kiyoko9
佐藤 慧 (朗読、ギター)http://ameblo.jp/keisatojapan/
宮澤 等(チェロ)

南青山マンダラ
www.mandala.gr.jp/aoyama/

2017/2/14(火)
開場 18:30 開演 19:30
¥3,000(+1ドリンク別)

ご予約・お問い合わせ
contact[at]robertadachi.com
※ [at]を半角@に

Facebookイベントページで将来を随時アップします。
https://www.facebook.com/events/1822434091348916/

** *  *  予告動画 その1  * *    *        *

*       *  *        *   *           *                *

音や言葉はまるで
しずくが水面につくる波紋のように
発せられた瞬間から
周囲に広がっていきます。

耳には聞こえなくなってもなお
無限に広がり
永遠に響き続けます。

愛を声高に語りづらいこの時代
「祈り」のかたちなら
それを表わせることがあります。

かつて聖者が
愛にもとづく行動を
咎められ処刑されたこの日

客席のあなたとともに私たちは
祈りの波を
世界に向けて
あの人に向けて
発します。

音と言葉で世界を共有するシリーズ第6回のテーマは
「Pray」です。

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