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2017年1月12日 (木)

ことば以外の言語

先日、絶対音感についての動画を観た。私のような絶対音感のない人間からすると、それは驚きの能力であり、自分にはないことに劣等感を抱いたりもする。だが、ビデオの中でも断言されている通り、絶対音感は大人になってからでは身に付けることができない。

絶対音感はおそらくは、生まれつき誰もが持っている能力だ。

色で考えるとわかる。

可視領域にある「特定の光の周波数」を我々は「色の名前」で呼ぶことができる。広義の「絶対色感」である。それは周波数と呼び名を一致させる訓練を幼い頃から繰り返しやってきたからふつうにできる。なかには微妙な差異を言い当てたり、特色の混ぜ合わせの分量までわかる狭義の絶対色感を持っている人もいる。

対して、可聴領域にある「特定の音の周波数」を「音の名前(音階)」で呼ぶことができる能力が絶対音感であるが、ほとんどの人がその訓練をしないので、脳はその能力を不必要なものと判断し、人生のわりと早い段階で捨ててしまう。訓練をした子どもだけがその能力を「残す」。

加えて、幼い頃からクラシック、ジャズなど、情報が高度な音楽を聴きつづけ、そして楽器によって演奏している人にとって、音楽は「言語」になるという。

耳で聴き、楽譜という記号を読み、身体と楽器を使って人に伝えるように演奏するということには、人間の持つ様々な能力や感覚を必要とする。論理、記憶、色彩、意味、感覚、物語、感情、身体、精神。それらを包括的に使い、他者とも関わる。

絶対音感はもしかすると、音楽をそのように「言語」として身につけていない人には、それだけあってもかえって生活のじゃまになるかもしれない。

脳のシナプスは、6歳くらいでピークになると言われている。生まれてからそれまでの間に、昔よく見たシンセサイザーのように、脳内のあちらこちらで配線が行われる。その後の人生で必要だろうと思われる「言語」の基礎が習得されるのは、この時期である。

この時期に、情報が高度な音楽を自分の言語にすることができた人は、大きくなってからもその言語を使って、考えたり、表現したり、他人と関わることが自然にできるようになる。彼らはつまり、「音楽ネイティヴ」なのだ。もちろん、ことばと同じで、どのような環境でどんな音楽をたくさん聴いたかで、身に付ける語彙や文法が変わる。

このように考えると、私だけでなく、そういう音楽教育を受けなかったことを悲観したくなる読者の方もいるかもしれない。しかし、創造性と個性の観点から見ると、その必要はまったくない。

なぜなら、0歳から6歳くらいまでの間に、音楽でなくとも、もしなにかをたくさんやっていたとすれば、それがあなたの脳をつくり、「言語」になっている可能性が高いからだ。運動をたくさんやっていた人なら運動が、友だちとおしゃべりをたくさんした人や読書をした人ならことばそのものが「言語」になっているはずだ。

あなたはその時期、何に熱中してすごしていただろうか。

私自身を振り返ってみると、その時期はひとりで「考えている」時間、「想像している」時間がすごく長かった。

それに氣づいたとき、今でも私自身が、考えたり想像したりすることに、自由さと流暢さ、そしてある種のアイデンティティを感じられることに納得した。

しかし、想像力を測るものさしは私の知る限りない。IQはある条件のもとでのテストだから少しちがう。運動能力のように測れないし、ことばや楽器のようにそのまましゃべったり弾いたりすることもできない。だから、それを世界とシェアするためには、なにかしらの他の言語に翻訳しなければならない。

もっとも、どんなに言語が流暢でも、中身がなければ話はつまらないということは、言うまでもない。

R0120239

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