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2017年1月20日 (金)

詩と言語

一説によれば、ある言語で詩を理解できるなら、その言語をマスターしていることになるという。それくらい詩は、その言語が使われる文化独特のニュアンスに依る部分が大きいということだ。

例えば「古池や蛙飛び込む水の音」という芭蕉の句を英語圏の人に英訳させると、多くの人が蛙を複数形のfrogsと訳すという話を聞いたことがある。日本人なら、ほとんどの人がa frogと訳すのではないだろうか。

しかし、高浜虚子は「選もまた創作なり」と言った。俳句では読み手が解釈することもまた創作ということだ。そういう意味では、蛙が単数であろうと複数であろうと、読み手の脳裏で独自の解釈=創作が行われていい。

教えることをするようになって、言葉の解釈・認識というものが、本当に人それぞれなんだということがよくわかった。おそらく大教室の講義ではそのようなことには氣づかなかっただろう。だが、少人数で接していると「おれそんなこと言ってないし」ということがよく起きる。

例えば、上記の「言葉の解釈・認識というものが、本当に人それぞれなんだということがよくわかった」と話したとする。

それを一字一句違わず記憶する人もいれば、「言葉の使い方はひとそれぞれなんだ」と、若干単語を入れ替えて聞く人もいれば、言葉をことばでなく「印象」で聞く人は「人は十人十色の言葉を使うんだ」くらいに曲解(自分の都合のいいように解釈)したりする。

課題を出したりすると、その文言を広い意味に解釈する人もいれば、すごく狭い意味に捉える人もいる。

言葉のパワーというのは常に、誤解や解釈の違いから生まれるリスクと背中合わせなんだと実感する。

ところで、よく「音楽は世界共通言語」みたいなことが言われる。言葉には通じない人がいるが音楽なら誰にでも通じるということ。しかし、個人的にはほとんどそうは思っていない。

20代のあるとき、国際イベントのダンスパーティでDJをしたことがある。そのとき、当時はやっていたダンスミュージックに、世界中の人が踊ってくれるかと思って流したら、ラテン諸国の人々が皆ブーイングをしながら脇にはけた。

彼らが代わりにこれらを流せと持ってきたCDは、ラテン音楽ばかり。それらをフロアに流すと日本やヨーロッパの若者がさーっとはけて、ラテン諸国の若者は熱狂的に踊った。

当然といえば当然なのだが、そこまで好みが違うものかと思った。音楽も言葉同様、異文化間では通じないことがあると実感した夜だった。

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Pray 〜世界に魅せられた者たちのライヴ6
2/14 南青山マンダラ
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