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2017年1月27日 (金)

俳句と写真

前回のラルフ・ギブソンの記事に関して、ツイッターを経由して読者の方からこのような質問をいただいた。「想いは写ると思いますか?」

私の答えは「実体がないものは写らないと思います。解釈によって推定されることはあるかもしれません」。

想いというものは、「物体」として目の前に存在していない。だから写真に写ることはない。写真には実体のあるものだけが写るという、きわめてシンプルな理由。

だが、見る人が、その2次元のイメージとして写し取られた3次元の物体の並びを見て、想いが写っているように見えると解釈するかもしれないし、しないかもしれない。そういうことだと思っている(私見)。

もっとも、一説によると人間に見えるのは実際に存在するものの4%程度らしいので、もしかすると見えていないだけで想いにも実体があるのかもしれない。

ところで先日、カロタイプで行われた橋本有史先生による「写真家のための俳句入門」を受講した。久々の「教わる側」。非常に有意義だった。

その後半で、実際の句会を体験した。そこでは講師も含めた全員の句が匿名で扱われ、それにたいして全員が票を入れる。橋本先生曰く、有名な先生の句が総スカンを喰らったり、けっちょんけちょんに言われることもあるという。

最後に選者がなぜそれを選んだかを、解釈も含めて述べる。作者が語る前に選者が自由に解釈する。

写真では反対に、作者がその解釈を先に説明をすることが多い。それは写真が、いつどこでだれがなにを撮ったかという記録性のある媒体であることとも関係するのだろうが、ときに、作者が見る人に解釈を押し付けようとしたり、逆に見る人が作者に自分の見方を押し付けようとしたりする場に出くわすことがある。

また俳句では、その制限された文字数も手伝って、説明的な言葉、回りくどい言い回し、常套句などが敬遠される。俳句でも、実在するものの描写が重視される。想いは実体のないものとして扱われ、解釈に委ねられる。

俳句のこのようなありかたは、写真においても有効なのではないか。それはまさに、先日からここで書いている、「語りすぎない技術」のひとつである。

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