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2017年3月10日 (金)

巨大化した心と知性のようなもの

安田登さんの「あわいの力」を読んだ。出だしが衝撃的だ。

「現代は『心の時代』と言われます。
しかし『心』は昔からあったわけではありません。
昔の人間には『心』がなかったのです。」

心がないとはどういうこと?と思った。心は物心ついたときからずっと私のなか(たぶん)にあったからだ。

ところが、漢字の祖先ができた紀元前1300年当時、5000くらいの文字が既にあったそうだが、そのなかに「心」に相当する文字はなかったのだそうだ(できたのはその3世紀後)。

「まず『文字』が生まれ、それからしばらくして『心』が生まれた。『文字』という道具を獲得し、それを使っているうちに、人間の脳がさらに発達し、その結果『心』が生まれた」という。

心とは、発達した脳がつくりだしたもの。脳を発達させたのは文字。それ以前の人間は、もっと身体の感覚に従って生きていた。

「自殺や精神疾患の増加が象徴的に示すように、『心』が身体を超えて巨大化し、人類は『心』を制御できなくなっているばかりか、自らがつくり出した『心』によって、いよいよ押し潰されそうになっているように思えてなりません。この『心』の副作用から逃れるには、『心』に代わる何かを手にするしかない。」(安田登「あわいの力」〜ミシマ社)

自分の生活を振り返ってみると、人と「言葉」について話すとき、ふと自分たちが無意識に「文字も含めたもの」を言葉として捉えていることに氣づく。

しかし、霊長類としての人間の長い歴史のなかで、文字が使われた期間はそれほど長くはなく、しかも、誰もが文字を使うようになったのは、かなり最近のことだ。

さらには印刷やデジタルによって簡単に交換・伝達できるようになったのは、「ついこの間」のこと。

「知性」と呼ばれるものも、言葉の占める割合が多い。そこでは文字が中心的な道具となる。

個人的な話で恐縮だが、私は、そういう意味での「知性」をさほど使わない世界に長い間いた。

幼児期は読書の代わりに空想のなかで文字のない物語をつくり、少年期はもっぱら運動をやり、並行して絵を描いたり、文字を使わず耳から外国語を学んだりした。

今でこそ私は文字を使って表現もする。私のことを「体育を休んでプールサイドで読書していたような子どもだった」と思っている人もいるようだが、現実はむしろその正反対。夏休みは宿題を最後の日までしない、読書もしない、その代わりプールと虫とりに明け暮れていたような小学生だった。その頃は安田さんがいうところの「心」で思考していなかった。

その後、アマチュア無線の資格を取るために無線工学やら法規を学び、パソコンでゲームをつくるためにコンピューター言語を学んだ。それらは言葉ではあったけれども、物語ではなく「ロジック」だった。小学校高学年から中学にかけての話である。

読書をするようになったのは高校に入ってから、本来の意味での読書をするようになったのは大学に入ってからである(運動は高校までかなりやっていた)。

このような生き方をしてきたから、不思議なことに(あるいは当然の結果として)、今でも思考の順序が「身体感覚→ロジック→言葉」だ。

だから、「『心』じゃないもの」で思考している割合が多いのが、自分でもよく分かっている。写真を教えるとき「視覚で考える」みたいな言葉をときどき使うが、はたして伝わっているのかどうか。

これもある種の知性なんだろうが、人はそれを知性と呼ばない。少なくとも知能指数を測るテストや学術のなかには含まれない。それでも私は言葉や文字を使わない「知性」というのはあると思っていて、そのことにずっと関心があった。

私がアートでやろうとしていることはまさに、この「知性のようなもの」で思考し、実感している「なにか」をかたちにすることに他ならない。

ところで、欧米で写真作品を見てもらおうとする日本人の多くが苦しんでいる「ステートメント」。なかには作品を言葉に置き換えられるはずがないと嘆いたり怒ったりする人もいる。言い分はもっともである。言葉にできないから写真にしているわけで。

だが、安田さんがいう「巨大化した心」を持つ人々に理解してもらうための手段がステートメントだとは考えられないだろうか。それはいわば、作品を言葉に「翻訳」することである。

考えてみれば、文学でも、厳密な意味での翻訳はできない。とくに詩はそうだ。例えば言葉遊び(英語の韻を踏むようなことなど)は他の言語には置き換えできないし、文化的背景に負うようなニュアンスも伝えづらい。

同じように、写真も言語への翻訳は不可能である。

しかし、翻訳次第で詩の本質が伝わり、読者が感動できるように、写真作品もステートメント次第で、伝わり方や感動の幅が変わる。映画だって、字幕や吹き替えがあるほうが圧倒的に伝わるのだから、ステートメントもそれくらいのつもりで書いてみたいものだ。

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