写真について

2018年10月 2日 (火)

コンテンポラリー

昨晩、東京都写真美術館で開かれる「愛について アジアン・コンテンポラリー」の内覧会に行ってきた(カメリアの原田さんありがとうございます)。非常に見応えのある展示。

きづいたことがいくつかあって、1つは、少し前にホンマタカシさんが雑誌でおっしゃってた「いま新しいと言われる写真作品には、セットアップか編集の要素が必ずあって、いわゆるストレートフォトが表現として成立しづらい」という意味のこと。

この展示のどの作品にも「セットアップ」または「編集」の要素が多分にあった。

2つめは、カメラ業界が、高速連写、高速AF、手ぶれ補正などのほうに進んでいるのに対し、ここにあった作品には、それらのどの機能も必要でないこと。

アートとしてのスティルピクチャーは、カメラ業界の進化/競争とは必ずしも呼応していない。

3つめは、(今に始まったことでないがあらためて)これらの作品が、フィジカル、エモーショナル、スピリチュアル、センシュアルな要素以上に、「コンセプチュアル」であるということ。

プリントが大きいとか痛々しく見えるとかいったフィジカル、センセーショナルな部分はあるが、その背景にはコンセプトがある。果ては写真を見ているのか読んでいるのかわからなくなる。

絵画も音楽(クラシック)もコンテンポラリーと呼ばれるようになるとコンセプチュアルになっていく。写真も同じ。

ここのところ、おもに音楽の制作、鑑賞を通して、そのフィジカルな部分にわくわくしている私の脳裏には、いろいろなことが浮かんでは消えていった。

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2018年9月25日 (火)

ストリートスナップとフィルム

あることがきっかけで、写真を始めたばかりの頃を思い出している。

写真をやるようになった引き金は石川文洋さんの写真だった(そのへんのことはここで語っているので詳しくはそちらを)。

その後に興味を持ったのが、ストリートスナップだった。

近所の写真屋さんが見せてくれた木村伊兵衛さんのパリの写真集、よく通っていた店に飾ってあった土門拳さんの昭和のスナップ、カルティエ=ブレッソンに憧れた。

このような誰もが知るストリートスナップから始まり、その後(挙げ忘れて失礼があるといけないのであえて名前は挙げないが)今も活躍する古今東西の写真家の多様な「Art of Snap Shooting」を知り、大いに影響を受けた。

自分が憧れた写真家、むさぼるように読んだ本を書いた方々の多くと、今では様々な場面でご一緒させていただく機会がある。すごく感慨深い。

当時は(今もほとんどスタイルは変わらないが)ライカとGRにフィルムを詰めて街を歩いた。街がそれまでとまったく違って見えた。

時は常に流れ、すべてのものは変化する。その過ぎ行く姿が見せる一瞬の輝きをフィルムに写したいと思った。

先日神戸で街歩きをしたとき、参加者で1人だけ、最初から最後まで私と行動を一緒にした方がいた。写真撮影は一人ひとりペースが違うので、最初は一緒にいても、たいがいはバラバラになるもの。しかし彼は違っていた。

正確な言葉は忘れたが、終わってから彼が「一緒に行動してずっとロベルトさんのスナップの撮り方を見てましたが、すごく刺激になった」みたいなことを言っていた。じっくり構えて撮るタイプかと思っていたが実はちがうと。

かつては街を歩きながら、手元のライカを見ないでピントを合わせる訓練をした。遠くに撮りたい対象が見えると、近づきながら、撮影距離になるまでにはピントを合わせておいて、最適な瞬間に、撮る。オートフォーカスより速い。フィルムも1枚だけ。

先日神戸で撮った写真を何枚か載せておく。全部ライカとトライX。

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☆ 10月に、前回とは違う場所(ここはたのしそう)を歩くことになっているので、フィルムでもデジタルでも、関西以外の方でも、大歓迎。

【メリケンカフェ企画】安達ロベルト×山崎えりこ 「ぶらりカメラ散歩」in 神戸異人館〜元町・トアウエスト・モトコー〜

☆ そして、いまだ撮っていてわくわくするフィルム、その魅力をお伝えするワークショップもやります。恒例のワークショップですが、毎回、語り足りません。

音楽でもアナログレコードが欧米を中心に復活してきていますが、それは一見、音にうるさいオーディオマニアによるものと思われがちですが、それを支えているのはむしろDJ文化です。

ラップトップから音楽を流すのと、レコードをターンテーブルで回すのでは、フロアのノリがぜんぜん違うと言います。

おなじように欧米、アジアでフィルムが復権してきているのは、フィルム写真が「クールだから」です。眉間にしわを寄せて「暗室道」を説くかつてのフィルム文化とは無縁です。

こんな話も聞きに来てください。

写真家が伝授 ! カメラがなくても大丈夫 ! 初めてのモノクロフィルムワークショップ

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2017年4月26日 (水)

写真を作品に変えるヒント

写真は一昔前と比べてずいぶん変わりました。

フィルムからデジタルになり、しかも誰もが持ち歩く携帯電話にカメラが入ったことで、写真を撮ることが日常的になりました。そのうえ、紙にプリントしなくともインターネットでかんたんに人に見せたりあげたりできるようになりました。紙で写真をあげると「データがほしい」(苦笑)と言われる時代です。

二昔前だと、写真は誰かカメラを持っている人にお願いして撮ってもらったものです。いまスクショと呼ばれるメモ代わりの写真は、もったいなくて撮れませんでした。なぜなら、高度な近接技術がなければいけかったのですから。カメラに入れたフィルムを1年かけて撮り切るみたいなこともよくありました。

でももう、特殊な撮影を除けば、誰もが好きなだけ好きな写真を撮れる時代になりました。

するとその間に、「写真作品」と呼ばれるものも当然、大きく変わりました。

以前は、フォトジェニックな被写体やあまり人が行ったことのない土地を、きれいな構図と適正な露出で撮ってきちんとプリントすれば「作品」と呼べたものです。

いまはどうでしょう。

ためしにInstagramを#landscapeというタグで見てみましょう。これを書いた時点で約5600万の写真がそこにあることがわかります。「いい写真」「上手な写真」と呼ばれそうなものも無数にありますね。

そう、「いい写真」「上手な写真」というだけでは、「作品」になりづらくなってきたのです。それは読者の皆さまの多くも実感しているのではないでしょうか。

作品に求められることは2つあると思っています。

1つは「アイディア」。

アイディアと一口に言っても、コミカルなアイディア、シリアスなアイディア、視覚的アイディア、文学的アイディア、ジャーナリズム的なアイディア等々さまざまあります。

例えば、林ナツミさんの「本日の浮遊」。

じーんと感動したり、考えさせられるものではありません。視覚的におもしろい!と思えるアイディアです。

写真が誰にでも簡単に撮れるようになった現代は、アイディアをすぐかたちにしやす時代とも言えます。

また、1枚では成立しないアイディアも、複数枚の組写真ならかたちにすることができますね。

もう1つ作品に求められるのが「驚き」。

例えば、Dan Mountfordの多重露光作品

いまでこそ多くの人が彼のマネをするようになりましたが、彼が学生時代につくった作品は衝撃的でした。

このように、影響力のある作品にはなんらかの「驚き」があります。

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2017年4月17日 (月)

受講生への手紙

講師を務める「光の時」では、講座と講座の間に、講師から受講生の皆さんへ手紙を出しています(明日から満席スタートのゼミでも出す予定です)。

毎回出されるお題に関係するヒント(ときにはかえって迷わせてしまう内容)を中心に、写真について感じていること、考えていること、創作の参考になるような話を思いつくままに書いています。

今回は、3月に送った手紙の一部をご紹介します。

*  * *       * * *      **  *        *  ***     *

ところで、今回の課題とは直接関係ありませんが、1つ質問があります。

あなたの写真は、何%くらいあなたの「作品」でしょうか。

直感の数字でかまいません。

その1枚の画をつくるのに、カメラが写してくれたのが何%くらい、レンズが写してくれたのが何%くらい、画像処理エンジンやフィルム、Photoshopがやってくれたのが何%くらいでしょう。プリンターの役割は何%くらいでしょう。

100%だからいいとか、0%がわるいいとか、その逆とかということではありません。また、同じ人でも1枚1枚ちがうかもしません。

なぜこのような質問をするかというと、あなた自身とあなた以外のものが、それぞれどれくらい1枚の写真に関わっているか、意図と役割を担っているか、それに自覚的になると、今後人に見せるときに役立つと思うからです。

例えば、同じように平面で見せるものではありますが、絵画と写真とでは、作者が「つくる」パーセンテージがずいぶんちがいますね。

言い換えて考えれば、写真において、作者が「つくる」ものって、何でしょう。

ぜひ考えてみてください。

では、次の講座を楽しみにしています。

安達ロベルト

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2017年2月24日 (金)

絵画からヒントをもらう

影響を受けやすいたちなので展覧会は本当に厳選して見に行くようにしているが行くのは好きだ。近年は、写真展より絵画の展覧会に行くことが多い。

展覧会があれば欠かさず行くのは諏訪敦さん、平松麻さんなどで、最近は内田すずめさんや黒坂麻衣さんも「発見」した。それ以外にも面白そうだと思うと先入観なしでギャラリーに飛び込んだりする。

先日、平松麻さんの展覧会に行って、その作品の放つエネルギーとともにあらためて感じたのが、写真と比較して、「テクノロジー」の含量が圧倒的に少ないということ。絵画においては、作者つまり人間が最も「ハイテク」。それを超えるテクノロジーが制作に関わっていない。それは見る側に、作者の息づかいを感じさせ、ほっとさせる。

写真をやっていると、どこかで常にテクノロジーを扱っている。場合によってはテクノロジーに振り回されている。

それは、写真がいまだに発展しているメディアであることとも大きく関係しているが、それと同時に(またはそれ以上に)、写真のテクノロジーが、必ずしも「写真作品をつくるため」の方向に進化しているとは限らないためでもある。

例えば、2016年のベストと彼らが(勝手に)呼んでいるこれらの写真と、それからおよそ100年前のアジェの写真とを単純に比較して、写真のテクノロジーが「作品」のために発展しているかどうかは疑問だ(もっともアジェはこれらを「作品」としては撮影していないのだが)。

他方、絵画を見ると、作者が「つくっているんだ」ということが直観的にわかる。その重みというか筆跡が、アイデンティティとなる。

ふつうにデジタル写真でプリントをやっていると、画家が大切にしている「画肌」にあたる要素は紙選びくらいしかなく、「色づくり」はE社かC社か染料か顔料かくらいの選択肢になる。それらはテクノロジーの選択であって、そこに作者の筆跡は残りづらい。

これだけ写真が溢れるなかで、世に問う作品をつくるためヒントの1つは、「画肌」「色づくり」かもしれないと思う。たぶんそれは、「誰にでも簡単に高品質が楽しめる」ためのテクノロジーから2歩も3歩も踏み込まないと生まれてこない。

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2017年2月22日 (水)

写真にまつわる個人的な不思議

巡り会いとは不思議なもので、かつては写真と無縁どころか、例えば旅先で写真を撮ることも否定していたような自分が、写真で仕事をするようになるとは夢にも思わなかった。写真家になろうと思ったことも一度もない。

だが、考えてみると、生まれて初めて自分の小遣いで買おうと思ったのが、カメラのケーブルレリーズだった。幼稚園の年長のとき、なぜか宇宙に猛烈に興味を持ち、親に1冊だけ買ってもらった星の本に載っていた長時間露光の天体写真にあこがれていた。

その本には撮影方法も載っていて、そこに「レリーズ」というものが出ていた。どうやらこれを買ってお父さんのカメラにつなげば、ぼくも星の写真が撮れるんだと思った。我ながらへんな子どもである。

母親と夕方行くスーパーや魚屋の近くに写真屋があり、背伸びしてやっと見えるディスプレイにレリーズらしきものが置いてあった。当時は足し算も割り算も知らなかったので、毎月の小遣い10円をいくつ貯めたら買えるだろうと来る日も来る日も考えていたことをよく覚えている。

また、生まれて初めて親に誕生日プレゼントをリクエストしたのも、思えばカメラである。小学3年のときだったろうか、当時流行っていた「ポケットカメラ」というのを誕生日に欲しいと父に言った。

子どもがおねだりしたものをすぐには買ってくれないポリシーの両親だったが、ポケットカメラは不思議と何も言わずに買ってくれた。カートリッジ式のフィルムが入るやつ。1回きりしか発光できないストロボが何個か入っていた。

その後、32歳でライカを買うまでは、自分の意志でカメラを持つことはなかった。

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2017年2月20日 (月)

写真を撮ることの楽しさ

写真を撮ることの楽しさは、「インプットの楽しさ」。なぜならカメラは受信機であって、送信機ではないからだ。

当たり前のことを何を今さらと思われるかもしれない。だが、写真を撮ることに絵を描くことのような要素を求めている人も少なくないから、なんとなくカメラはアウトプットのツールだと思っている人もいるかもしれない。だけど、撮影する瞬間の行為そのもの、そのときのカメラの働きは、インプット。あるいはコレクション。

経験から言うと、インプットの楽しさとアウトプットの楽しさは別物。音で考えればよくわかる。録音の楽しさと、プレイの楽しさは別物だ。

「こんど○○に行って写真撮りまくってきます!」という宣言は、置き換えれば「こんど○○に行って音録りまくってきます!」ということになる。

一部にあるネイチャーフォトの「様式美」を録音に置き換えて想像してみよう。「前半15秒にせせらぎの音、後半30秒は鳥の声」と、1:2の黄金比率を大切にしたり、「隅々までよく聞こえるように」とマイクには指向性を持たせずパンフォーカスを使ったり、「録音後にエフェクトも編集も加えてはならない」と録って出しですべてやったり、ということになるかもしれない。

しかし実際には、旅にカメラを持つ人は多いが、サウンドレコーダーを持つ人は少ない。おそらくそれは、視覚と聴覚と記憶にまつわる、人間の生理と関係している。

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2016年4月 6日 (水)

オランダのフォトグラファー事情の断片

4/1に冬青ギャラリーで、オランダのバス・ウィルダーズ教授の示唆に富んだトークを聞きました。そのごく一部を紹介します。

彼が教鞭をとる大学では、学生が、写真の技術やプレゼンの仕方はもちろん、最終学年では卒業後の経理のことまで勉強するそうです。大学外からの仕事の依頼を実際に受けてやったりもします。ステートメントは、入学審査のために全員が書いていて、入学後も写真を学んでいるのか物書きを学んでいるのかと思うほど文はかきまくるそうです。

また、オランダでは、写真家が自身をフォトグラファーでなくアーティストと呼ぶことが増えているそうです。「写真を使ってアートをやる人」というニュアンスのようです。

理由は「写真はもう誰にでも撮れるから」。問われるのは、写真を使って何をやるのか、何ができるのか。たとえば識字率がほぼ100%の日本では、読み書きは特別な能力ではないわけで、それを使って何ができるのかが問われるのと一緒ですね。

そして、彼の作品のサイズについて質問すると(西洋の作家にしては小さいと思ったので)、今回は日本人の好みに合わせた、とのお答え。

「所属する大学の学生は1年生のときからA0の出力は当たり前、じゃんじゃんプリントしてます。でもなんでも大きくすればいいもんじゃない。小さい作品、大きい作品、それぞれのよさがある」と結論づけたあと「でも小さいサイズの作品をつくっている有名な写真家はあんまりいないね」と付け加えていました。

そんなことを考えながら背景がボケるレンズで桜を撮っていたら、そういえば背景をボカした作風で世界的に影響力のある写真家も少ないな、とくに近年は、とか思ったりしました。

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2015年1月26日 (月)

ひっかかり

ここ数ヶ月、写真というものを「ひっかかり」というキーワードで再定義している。

私が担当する写真ゼミの受講生のなかに、美しい写真を撮るのだけれど、画面で見たときのインパクトがプリントにするとないというか、「心に残りにくい」プリントになる人が何人かいた。私はどうしたらそれを解決できるか考えた。

精神論を大切にする先生ならそこで「もっとプリントに心を込めろ」などと言うのであろうが、それはやりたくなかった。なぜなら、私は直感的にそれが、心の問題ではなく、ハードウェアの問題だと感じていたからだ。

これまでの経験の中で、デジタルプリントは立体感を付けにくいことを知っていた。フィルムで撮って印画紙にプリントする技法の優れた点の一つは、奥行き感や立体感を(比較的)つけやすい点にある。

そこで、デジタルプリントにおいては、フォトショップ上のある一つの機能を使って、立体感をつけることを試みた。予想通り、プリントはわずかだが確かなものへと変わった。

さらに、授業の中で一人の受講生が、一番見せたい箇所だけに部分的に立体感をつけることを試みた。

すると、急にプリントが「心に残る」ものになった。それはつまり、一番見せたい部分に「ひっかかり」をつくることだったのだ。

考えてみると、写真を撮るときも同じなのかもしれない。

我々がたとえば街を歩きながら写真を撮りたくなるときは、目や心に何かが「ひっかかった」ときだとも言えるのではないだろうか。

目や心にひっかかったものを、見る人の目や心にもひっかかるように工夫して撮影し、プリントする。

このシンプルな、当たり前のような写真の法則に氣づくのに、ずいぶん時間がかかってしまった。ヒントをくれたゼミ生にも感謝である。

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2013年12月11日 (水)

テーマとモチーフ

最近思うのだが、混同されやすい二つの考え方「テーマ」と「モチーフ」を分けて考えることは、写真作品において、案外大切なのではないか。両者が重なる部分もあるが、性質は違う。

一般的な定義では、「テーマ」が、作品のアイディア、メッセージ、目的などを指すのに対し、「モチーフ」は、特定のイメージや出来事を指し、(文学や組写真などでは)多くの場合、作品中で繰り返される。

たとえば、「雪の結晶をモチーフに、多様性をテーマに組写真をつくった」などと言える。

現代美術では、モチーフを意識している画家は多く、たとえば水玉、蝶、滝など、具体的なかたちやモノを繰り返し作品に登場させる。

ところが写真の世界では、「テーマを持つこと」の大切さを強調する写真家は(とくに日本には)多いが、「モチーフを持つこと」を説く写真家は少数だ。

その結果かどうか分からないが、日本人では、文学的なテーマを模索する人が(西洋に較べて)多いと感じる。作者の主観、心理描写を重んじ、ウェットなテーマを選ぶことを好む。撮影のときも「何を感じて撮ったか」を大切にする。

他方西洋では、心配性で勤勉な国民性が日本人に似ていると言われるドイツ人でさえ、写真においてはむしろ正反対で、テーマよりモチーフを重んじるように私には映る。ベッヒャー夫妻が、その最たる例で、主観を排し、ドライにモチーフを繰り返し描写する(同じ東アジアでも、韓国の写真家は、モチーフを重視する人が多いように私は感じている)。

主宰する写真ゼミでも、モチーフを繰り返し使う客観を重んじた作品づくりをやってみるのもおもしろいんじゃないかと再三言ってはいるが、実行する人はほとんどいない。どこか文学的要素がないと日本人にはつまらないのかもしれない。

音楽でもそうで、ミニマリズムと言われる、主観を排してモチーフを繰り返す作曲法を得意とする日本人作曲家はあまりいない。もしかするとそれは、どこか切実でロマンティックな要素がないと、「表現」だと感じないからなのかもしれない(それはそれで個人的には理解できるのだが)。

ベッヒャー夫妻のタイポロジーほど客観に徹したスタイルでなくとも、モチーフをはっきり意識したつくり方をする人がもっと増えてもいいだろう。

これからフォトレビュー等で欧米のギャラリーや出版社と接触しようとする写真作家にはとくに、テーマとモチーフを区別して考えることを勧める。もしこれまでモチーフというものをあまり意識してこなかったとしたら、これを機に考えてみてはどうだろう。なぜなら、西洋における写真は、日本以上に「現代美術」であるからだ。

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