写真について

2017年2月24日 (金)

絵画からヒントをもらう

影響を受けやすいたちなので展覧会は本当に厳選して見に行くようにしているが行くのは好きだ。近年は、写真展より絵画の展覧会に行くことが多い。

展覧会があれば欠かさず行くのは諏訪敦さん、平松麻さんなどで、最近は内田すずめさんや黒坂麻衣さんも「発見」した。それ以外にも面白そうだと思うと先入観なしでギャラリーに飛び込んだりする。

先日、平松麻さんの展覧会に行って、その作品の放つエネルギーとともにあらためて感じたのが、写真と比較して、「テクノロジー」の含量が圧倒的に少ないということ。絵画においては、作者つまり人間が最も「ハイテク」。それを超えるテクノロジーが制作に関わっていない。それは見る側に、作者の息づかいを感じさせ、ほっとさせる。

写真をやっていると、どこかで常にテクノロジーを扱っている。場合によってはテクノロジーに振り回されている。

それは、写真がいまだに発展しているメディアであることとも大きく関係しているが、それと同時に(またはそれ以上に)、写真のテクノロジーが、必ずしも「写真作品をつくるため」の方向に進化しているとは限らないためでもある。

例えば、2016年のベストと彼らが(勝手に)呼んでいるこれらの写真と、それからおよそ100年前のアジェの写真とを単純に比較して、写真のテクノロジーが「作品」のために発展しているかどうかは疑問だ(もっともアジェはこれらを「作品」としては撮影していないのだが)。

他方、絵画を見ると、作者が「つくっているんだ」ということが直観的にわかる。その重みというか筆跡が、アイデンティティとなる。

ふつうにデジタル写真でプリントをやっていると、画家が大切にしている「画肌」にあたる要素は紙選びくらいしかなく、「色づくり」はE社かC社か染料か顔料かくらいの選択肢になる。それらはテクノロジーの選択であって、そこに作者の筆跡は残りづらい。

これだけ写真が溢れるなかで、世に問う作品をつくるためヒントの1つは、「画肌」「色づくり」かもしれないと思う。たぶんそれは、「誰にでも簡単に高品質が楽しめる」ためのテクノロジーから2歩も3歩も踏み込まないと生まれてこない。

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2017年2月22日 (水)

写真にまつわる個人的な不思議

巡り会いとは不思議なもので、かつては写真と無縁どころか、例えば旅先で写真を撮ることも否定していたような自分が、写真で仕事をするようになるとは夢にも思わなかった。写真家になろうと思ったことも一度もない。

だが、考えてみると、生まれて初めて自分の小遣いで買おうと思ったのが、カメラのケーブルレリーズだった。幼稚園の年長のとき、なぜか宇宙に猛烈に興味を持ち、親に1冊だけ買ってもらった星の本に載っていた長時間露光の天体写真にあこがれていた。

その本には撮影方法も載っていて、そこに「レリーズ」というものが出ていた。どうやらこれを買ってお父さんのカメラにつなげば、ぼくも星の写真が撮れるんだと思った。我ながらへんな子どもである。

母親と夕方行くスーパーや魚屋の近くに写真屋があり、背伸びしてやっと見えるディスプレイにレリーズらしきものが置いてあった。当時は足し算も割り算も知らなかったので、毎月の小遣い10円をいくつ貯めたら買えるだろうと来る日も来る日も考えていたことをよく覚えている。

また、生まれて初めて親に誕生日プレゼントをリクエストしたのも、思えばカメラである。小学3年のときだったろうか、当時流行っていた「ポケットカメラ」というのを誕生日に欲しいと父に言った。

子どもがおねだりしたものをすぐには買ってくれないポリシーの両親だったが、ポケットカメラは不思議と何も言わずに買ってくれた。カートリッジ式のフィルムが入るやつ。1回きりしか発光できないストロボが何個か入っていた。

その後、32歳でライカを買うまでは、自分の意志でカメラを持つことはなかった。

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2017年2月20日 (月)

写真を撮ることの楽しさ

写真を撮ることの楽しさは、「インプットの楽しさ」。なぜならカメラは受信機であって、送信機ではないからだ。

当たり前のことを何を今さらと思われるかもしれない。だが、写真を撮ることに絵を描くことのような要素を求めている人も少なくないから、なんとなくカメラはアウトプットのツールだと思っている人もいるかもしれない。だけど、撮影する瞬間の行為そのもの、そのときのカメラの働きは、インプット。あるいはコレクション。

経験から言うと、インプットの楽しさとアウトプットの楽しさは別物。音で考えればよくわかる。録音の楽しさと、プレイの楽しさは別物だ。

「こんど○○に行って写真撮りまくってきます!」という宣言は、置き換えれば「こんど○○に行って音録りまくってきます!」ということになる。

一部にあるネイチャーフォトの「様式美」を録音に置き換えて想像してみよう。「前半15秒にせせらぎの音、後半30秒は鳥の声」と、1:2の黄金比率を大切にしたり、「隅々までよく聞こえるように」とマイクには指向性を持たせずパンフォーカスを使ったり、「録音後にエフェクトも編集も加えてはならない」と録って出しですべてやったり、ということになるかもしれない。

しかし実際には、旅にカメラを持つ人は多いが、サウンドレコーダーを持つ人は少ない。おそらくそれは、視覚と聴覚と記憶にまつわる、人間の生理と関係している。

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2016年4月 6日 (水)

オランダのフォトグラファー事情の断片

4/1に冬青ギャラリーで、オランダのバス・ウィルダーズ教授の示唆に富んだトークを聞きました。そのごく一部を紹介します。

彼が教鞭をとる大学では、学生が、写真の技術やプレゼンの仕方はもちろん、最終学年では卒業後の経理のことまで勉強するそうです。大学外からの仕事の依頼を実際に受けてやったりもします。ステートメントは、入学審査のために全員が書いていて、入学後も写真を学んでいるのか物書きを学んでいるのかと思うほど文はかきまくるそうです。

また、オランダでは、写真家が自身をフォトグラファーでなくアーティストと呼ぶことが増えているそうです。「写真を使ってアートをやる人」というニュアンスのようです。

理由は「写真はもう誰にでも撮れるから」。問われるのは、写真を使って何をやるのか、何ができるのか。たとえば識字率がほぼ100%の日本では、読み書きは特別な能力ではないわけで、それを使って何ができるのかが問われるのと一緒ですね。

そして、彼の作品のサイズについて質問すると(西洋の作家にしては小さいと思ったので)、今回は日本人の好みに合わせた、とのお答え。

「所属する大学の学生は1年生のときからA0の出力は当たり前、じゃんじゃんプリントしてます。でもなんでも大きくすればいいもんじゃない。小さい作品、大きい作品、それぞれのよさがある」と結論づけたあと「でも小さいサイズの作品をつくっている有名な写真家はあんまりいないね」と付け加えていました。

そんなことを考えながら背景がボケるレンズで桜を撮っていたら、そういえば背景をボカした作風で世界的に影響力のある写真家も少ないな、とくに近年は、とか思ったりしました。

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2015年1月26日 (月)

ひっかかり

ここ数ヶ月、写真というものを「ひっかかり」というキーワードで再定義している。

私が担当する写真ゼミの受講生のなかに、美しい写真を撮るのだけれど、画面で見たときのインパクトがプリントにするとないというか、「心に残りにくい」プリントになる人が何人かいた。私はどうしたらそれを解決できるか考えた。

精神論を大切にする先生ならそこで「もっとプリントに心を込めろ」などと言うのであろうが、それはやりたくなかった。なぜなら、私は直感的にそれが、心の問題ではなく、ハードウェアの問題だと感じていたからだ。

これまでの経験の中で、デジタルプリントは立体感を付けにくいことを知っていた。フィルムで撮って印画紙にプリントする技法の優れた点の一つは、奥行き感や立体感を(比較的)つけやすい点にある。

そこで、デジタルプリントにおいては、フォトショップ上のある一つの機能を使って、立体感をつけることを試みた。予想通り、プリントはわずかだが確かなものへと変わった。

さらに、授業の中で一人の受講生が、一番見せたい箇所だけに部分的に立体感をつけることを試みた。

すると、急にプリントが「心に残る」ものになった。それはつまり、一番見せたい部分に「ひっかかり」をつくることだったのだ。

考えてみると、写真を撮るときも同じなのかもしれない。

我々がたとえば街を歩きながら写真を撮りたくなるときは、目や心に何かが「ひっかかった」ときだとも言えるのではないだろうか。

目や心にひっかかったものを、見る人の目や心にもひっかかるように工夫して撮影し、プリントする。

このシンプルな、当たり前のような写真の法則に氣づくのに、ずいぶん時間がかかってしまった。ヒントをくれたゼミ生にも感謝である。

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2013年12月11日 (水)

テーマとモチーフ

最近思うのだが、混同されやすい二つの考え方「テーマ」と「モチーフ」を分けて考えることは、写真作品において、案外大切なのではないか。両者が重なる部分もあるが、性質は違う。

一般的な定義では、「テーマ」が、作品のアイディア、メッセージ、目的などを指すのに対し、「モチーフ」は、特定のイメージや出来事を指し、(文学や組写真などでは)多くの場合、作品中で繰り返される。

たとえば、「雪の結晶をモチーフに、多様性をテーマに組写真をつくった」などと言える。

現代美術では、モチーフを意識している画家は多く、たとえば水玉、蝶、滝など、具体的なかたちやモノを繰り返し作品に登場させる。

ところが写真の世界では、「テーマを持つこと」の大切さを強調する写真家は(とくに日本には)多いが、「モチーフを持つこと」を説く写真家は少数だ。

その結果かどうか分からないが、日本人では、文学的なテーマを模索する人が(西洋に較べて)多いと感じる。作者の主観、心理描写を重んじ、ウェットなテーマを選ぶことを好む。撮影のときも「何を感じて撮ったか」を大切にする。

他方西洋では、心配性で勤勉な国民性が日本人に似ていると言われるドイツ人でさえ、写真においてはむしろ正反対で、テーマよりモチーフを重んじるように私には映る。ベッヒャー夫妻が、その最たる例で、主観を排し、ドライにモチーフを繰り返し描写する(同じ東アジアでも、韓国の写真家は、モチーフを重視する人が多いように私は感じている)。

主宰する写真ゼミでも、モチーフを繰り返し使う客観を重んじた作品づくりをやってみるのもおもしろいんじゃないかと再三言ってはいるが、実行する人はほとんどいない。どこか文学的要素がないと日本人にはつまらないのかもしれない。

音楽でもそうで、ミニマリズムと言われる、主観を排してモチーフを繰り返す作曲法を得意とする日本人作曲家はあまりいない。もしかするとそれは、どこか切実でロマンティックな要素がないと、「表現」だと感じないからなのかもしれない(それはそれで個人的には理解できるのだが)。

ベッヒャー夫妻のタイポロジーほど客観に徹したスタイルでなくとも、モチーフをはっきり意識したつくり方をする人がもっと増えてもいいだろう。

これからフォトレビュー等で欧米のギャラリーや出版社と接触しようとする写真作家にはとくに、テーマとモチーフを区別して考えることを勧める。もしこれまでモチーフというものをあまり意識してこなかったとしたら、これを機に考えてみてはどうだろう。なぜなら、西洋における写真は、日本以上に「現代美術」であるからだ。

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2013年11月 2日 (土)

シャッターチャンスと美意識

昨日フォトコンテストの審査をさせていただき、数千枚のプリントすべてに目を通した。こういうのは審査員の主観だから、惜しくも選に漏れた方は、単に趣味が合わなかった、審査員が違えば入賞してたかもしれないと思ってほしい。

ただ、残念ながら8割以上の作品は、手にした瞬間に落選と思うものだった。その作品はもしかすると、誰が審査員をやってもほぼ同じだったのではと思う(少なくとも昨日ご一緒させていただいた先輩写真家とはそうだった)。

その理由は、1)プリントがいいかげん、2)画として洗練されていない、の2点に集約されると思う。アマチュアの軽やかさ、初心者の大胆さを大切にしてほしいと思うのと同時に、研究し尽くしたような人、徹底的にやっている人にもっと出会いたかったとも思う。

まず、プリントでの審査だったので、用紙やプリント方法を学習している人、大切にしている人のプリントは、かなりはっきり分かった。

日頃からプリントを意識的にやっている人は、その緊張感のようなものが紙から伝わってくるのであろう。

誤解してほしくないのは、だからといってぶっつけ本番的に業者に高級プリントをしてもらえばいいということではないということ。日頃の積み重ねの話だ。

また、目の前の「出来事」とか「シャッターチャンス」はとらえているものの、それが画として洗練されていないというものが多かった。

これには、日頃どれだけ意識的に写真を撮りプリントしているかのほかに、他人の写真、古今東西の名作(絵画や映画等も含め)をどれだけ見ているか、もっと広く言えば、自分なりの視覚の美意識みたいなものをどれほど持ってものを見、触れているかが問われるのだと思う。

なぜなら、シャッターチャンスはカメラを初めて手にした人でもとらえることができるが、それを美的に洗練させるには、ある程度の経験や学習が必要だと思うからだ。

とくに光や色の描き方には、その人の日頃の光や色の意識の仕方がはっきり現れる。

言うまでもないが、これらすべては、コンテストに入賞したいならの話で、そういう訳ではない人や記念受験的に応募される方は、その限りではない。

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2013年6月 6日 (木)

写真かフォトグラフか自己表現か

先週末、2日間でたくさんの写真を視て、講評をした。一つはワークショップで、もう一つは公募の作品群について、1枚1枚コメントをするのが私の役割だった。

無責任に「もっと〜したほうがいいんじゃないの?」と、個人的好みを押し付ければ簡単だったのだろうが、それでは本人のためにならないと思っている。だから、できるだけ建設的に語ろうとした。

ワークショップでの講評は、レクチャーや質疑応答を経て撮影してもらった作品だったから、一定の共通点があり、やりやすかった。

だが公募作品の講評は、参加者それぞれの、写真にたいする立ち位置が違っていてむずかしい。

講評した作品は、大きく以下の3つに分けられた。

1)写真、2)フォトグラフ、3)自己表現

1)の「写真」とは、真実を写したもの、すなわち、見たものをそのままに写し取ったものだ。

見たものをどれだけ忠実に画像として再現できるかが大切だ。

日本人が以前からポジフィルムを好み、クリエイティヴなレタッチ技術があまり普及しない背景には、この「写真」という概念が根底に流れているからかもと、ときどき思う。

「写真」には、「記録写真」や「記念写真」の要素が強い。

対して2)の「フォトグラフ」は、英語のphotograph。語源は「光で描いた画」である。「写す」という受動的な行為による「写真」に比べて、能動的に「描く」という意味合いが強い。

その「描く」という行為ゆえ、フォトグラフは、「アート」に近い。

なぜなら、アートの一つの定義は「人間の創造的スキルを用いた表現」であり、「描く」という行為は、(「写す」に比べ)創造的だからだ。

3)の「自己表現」は、ここでは狭義の自己表現を指す。すなわち、「私を」表現している、「私を」見てもらうための表現のことである。

一番見てほしいのは、写真のなかの真実でもフォトグラフのなかの創造性でもなく、こんなすてきなものを写し、こんなすごいスキルで描いている私自身なのである。

俳句のなかに、「見ゆる」とか「聴く」といった、作者自身の知覚動詞が出てくると、とたんに「こんなすてきなものを見つけた私ってすてきでしょ?」「こんなオシャレな音を聴いた私ってセンスいいでしょ?」と言われているようで読む側が冷めてしまう現象が、写真にもあるのではないか。

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2013年4月20日 (土)

世界に意味を与えるのか、世界から意味を読み取るのか

「世界に『意味を与える』ために人はファインダーの向こう側に関係している自分自身を感じなければならない。そのためには、集中力、心の鍛錬、繊細さそして幾何学的なセンスが求められる。」アンリ・カルティエ=ブレッソン

欧米人と日本人とでは、なぜか好む写真が違う。よって欧米の写真家と日本人写真家が撮る写真の傾向も違う。

ネットで世界中のフォトグラファーの写真が見られるようになった今日、それがこれまで以上に顕著に思えてきて(たとえばこのサイト)、なぜそうなのか、ここ1、2年ずっと考えてきた。

なかなか答えはでなかったのだが、先日、上記のカルティエ=ブレッソンの言葉をある本で読んだとき、「もしや」と思ったことがある。写真における「意味」について、欧米人と日本人は、正反対のアプローチを取るのではないだろうか、と。

すなわち、欧米の写真家が、写真を通して自らが「世界に意味を与える」という能動的なアプローチを多く取るのに対し、日本人の写真家は、「世界から意味を読み取る」ことを大切にする受動的傾向が強いのではないかと思ったのである。

また、欧米人が言葉によって意味をはっきりさせたがるのに対し、日本人は意味が読み取られないようにぼやかすことも多い。

意味を与える欧米人と、意味を読み取る日本人。意味を明確にする欧米人と、意味をあいまいにする日本人。

カルティエ=ブレッソンの写真には、単なるスナップを超えた、彼の美意識に基づいて幾何学的な画に昇華されたものが多い。これは、意味のない状況にカメラを向けフレーミングすることでそこに「意味をつくりだす」行為と言ってもいいだろう。

ウタ・バースも、その純度の高い抽象化によって、目の前にある光、影、色、かたちに、特別な「意味を与える」ことに成功している。

また、ウォルフガング・ティルマンスは、写真家の役割とは世界の再定義だと言っている。

対して日本人の写真家の多くは(あえて例を挙げないが)、眼前の事象から「意味を読み取り」、それを純度の高い描写によって表わそうとする。どんな新しい価値をつくりだすかより、どんなことを感じて撮ったかを大切にする。

写真に限らず、工業製品でも同じ傾向があるのではないだろうか。欧米人が新しい価値(たとえば、自動車、電話、コンピューター)をつくりだし、日本人はそこから価値を読み取り、より高度なものへとつくりかえていく。

誤解してほしくないのは、欧米人が優れていて、日本人がそうでないと言っているわけではないということだ。「意味」にたいするアプローチが違うということだ。

その違いがはたして文化から来るのかどうか、けっきょくのところ、理由はまだ分からないままではあるが。

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2013年1月10日 (木)

熱と安全地帯

写真に限ったことではないが、「熱」をどれだけ持続させ、どれだけ伝えられるかが大切だとつくづく思う。

絵画なら1枚を描くのに、作曲なら1曲を書くのに、小説なら1冊書くのに、それ相当の時間を必要とするから、作者はその間ずっと熱を持ち続けないといけない。そのためには、強くて持続可能なアイディアや動機、あるいは書き続けるための自己管理が必要となる。

熱が持続しなかったものは完成しないから世に出せない。その意味では、制作期間ずっと熱が続くかどうかが、作品を世に出していいかどうかの一つの「自己フィルター」にもなっている。

写真においても、かつて技術的に困難だった時代、1枚を仕上げるのには相当な熱が必要で、そのためには被写体の吟味や、誰のためにつくるかが大切だった。フィルムカメラが普及してからも、撮ったはいいが現像に出さずにフィルムを放置ということもよくあったと思う。それも、言ってみれば熱が持続しなかったということだ。

ところがデジタル時代になって、熱がそれほど持続しなくても、簡単に写真を人に見せることができるようになった。それはそれで歓迎すべきことで、私もたくさんの恩恵を受けている。

だが、もし写真を「アート」として考える場合、さほど熱を帯びていない写真を簡単にアウトプットすることは、あまり本人のためにならないのではないかと感じている。なぜなら、熱は伝導するからで、熱を帯びていない作品は伝わりづらいからだ。

ならばあえて古い機材で苦労して写真をつくればいいかというと、そういうことでは必ずしもない。デジタルのスピード感を使って面白い作品をつくっている人はたくさんいる。ただ、写真が人になかなか伝わらないと感じている人は、「もしかすると自分の写真には『熱』が足りないのではないか」と疑ってみる価値はある。

だからといって、ひたすら「個人的な熱い想い」を写真に込めたらいいというわけではない(むしろ逆効果になることが多い)。ここでいう「熱」とは、熱いとか冷たいとかいう熱では必ずしもなく、ヴァイブレーションと言い換えられるものであろう。

では、伝わりやすい熱を得るためにはどうしたらいいか。自分の経験から言えば(自戒も含めて)、その一つのヒントが「安全地帯から出る」ことだと思っている。

「安全地帯」とは、簡単に撮れてしまう、簡単に写真がつくれてしまう領域のことで、その要素は人によって様々だが、被写体の選び方、被写体への近づき方、情報の削ぎ落とし方等々がある。

いつもより2、3歩前に出て撮る、あえて少々恥ずかしい思いをしたり、接近しづらいものに近づいて撮る、ずっと行きたいと思っていたがあきらめていた土地に思い切って行ってみるといったことは、文字通り安全地帯から出る行為だ。また、普段だったらこの程度でいいだろうと思う場面で、いやもっとやれば違うものが撮れるはずだからと粘るのも、「感性の安全地帯」を出ることになる。これらは、確実に写真を変える。

さらに言えば、他人に理解してほしいとき、人は写真を「説明的」にして「情報の安全地帯」に留まりがちだ。だが、その説明的な部分を大胆に削り落とすことでも写真は変わる。理解されにくくなるかもというリスクを背負う分、視覚的には締まった印象になり、みる側のイマジネーションを喚起することにもなり得る。

安全地帯は、人のエゴ(自意識)の範囲内にある。そこから勇氣を持って前に踏み出すとき、自己を超えたものが立ち現れる。それは熱となり、持続して、人に伝わると私は信じる。

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