ものづくりについて

2018年9月20日 (木)

トーン、輪郭、レイヤー、強度

ここのところ、写真、音楽(作曲)、動画、絵画(水彩)、執筆(原稿、翻訳)など、文字通りメディアを超えて仕事している。

振り返ってみると、どの媒体に携わっていても、いま一番最初に関心のあるのが、「トーン」だということに氣づいた。

写真なら色、コントラスト、明瞭度などだし、音楽なら音色(シンセサイザーで音づくりをたくさんやっている)、水彩画なら絵の具をミックスさせることでつくる色味だし、文章を書いていても、文体以前のトーンに関心がある。

でも、トーンだけでは人に伝えることができないので、それに「輪郭」を与える。

輪郭とは、写真や絵画ならモチーフだし、音楽ではメロディや波形、文章なら題材だろうか(かつての自分は今とちょっと違っていて、トーンよりも輪郭に興味があったように思う。何を撮るか何を描くか、どんなメロディを書くか、何について書くか)。

次に、レイヤーを与える。

レイヤーが、作品に奥行きと深みを与えるのだが、これを仮に上記の輪郭のように左脳で論理的に考えてしまうと、とたんにウソっぽくなるという、きわめて感覚的なものだと思っている。

そして最後に(実際は「同時に」なのだが)「強度」を与える。

強度を感じるポイントはその人の生きてきた環境や好みによって大きく違う。だから、自分の好みに反するところに強度のある作品を人は生理的に嫌だなどと感じることも多い。しかし、これはカフェラテやカプチーノでいえばエスプレッソにあたる部分にあるものだから、好き嫌い言われるのを覚悟で、しっかりと自分の好みを反映させないといけない。

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前回好評だった「安達ロベルトアカデミー 入門編」が10/8に神戸で開かれます。私が日々創作するなかで身につけてきた、このような「知恵のようなもの」を可能な限りお伝えします。

そして、あなた自身が、内側から自分だけの知恵を発見できるものにもしたいと思っています。

関西以外の方もちょっとだけがんばれば参加できますので、興味がある方、迷っている方は思い切って参加してみてください。

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たのしく、でも少しだけ影響を受けながら写真撮影をしたいという方は、「ぶらりカメラ散歩」にぜひ。写真って、1人で撮ってると内向きになりがちですが、写真でたくさん発信したい方、もっと発見したい方は、誰かといっしょに撮るとたくさんいいことありますよ。

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そして、いま世界的にやる人が増えているモノクロフィルムの超入門「はじめてのモノクロフィルムワークショップ」もやります。受けておくと安心です。今さら人に聞けないこともここではOK。

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2018年7月27日 (金)

つくる時間帯

文を書く仕事は午前中にすることに決めている(厳密に決めているわけじゃないけれど)。

それは、朝のほうが、「正しい」言葉が、はっきりわかるからだ。正しいというのは、文法が正しいとかだけじゃなくて、ふさわしいとか、力があるとか、そういう感じ。

それが午後になると、午前中のようにクリアに言葉のエネルギーを認識できなくなる。単語どうしがクリックしているかどうか、流れがちゃんとできているか、判断があいまいになる。不思議だけど。

夜に文章を書く人も多い。自分もたまにやるが、朝のようにはうまく書けない。

村上春樹さんの文章があれほど緻密で正しくてネチネチしているのは、朝書いているからだと思う(私も夜に書けばもう少しいい加減な文になってかえっていいのかもね!)。

最近翻訳の仕事を少ししていて、それも午前中にやっている(余談だが、日本語から英語に訳すとき、a, theの冠詞は難しい。大学でお世話になった私より日本に長く住んで日本語完璧だったスペイン人の先生も、助詞の「は」「が」だけはよく間違えていた。それと似ていると思う)。

写真も、朝、とくに夜明け前後に撮る写真はうまくいくことが多い。空氣が澄んでいて、光がきれいだからだろうが、個人的には、写真の神様が早起きしたご褒美をくれてるんだと信じたい。

音楽は、日が出ていないときのほうが、粒がはっきり聞こえる。夜観ていたテレビのボリュームが、朝つけると小さく感じるのも、夜のほうが音がはっきり聞こえるからだろう。

若いころ、「夜の音楽」に憧れて、夜に作曲しようとした。だが、とにかく眠くてほとんどまったくつくれなかった。今は歳をとって少しは書けるようになったかな。

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2017年6月12日 (月)

写真の未来と人間の未知な領域

Facebook社のクリス・コックス氏によると、2022年までにインターネットの通信量の75%が動画になるという予測があるそうです。

静止画の写真がなくなることはないでしょうが、情報伝達の目的で静止画が使われる割合は、現在よりぐっと小さくなるのでしょう。

情報伝達の役割が大きかった絵画に、写真の登場とともに、アートとしての役割が増えたように、静止画の写真もそうなっていくのでしょうか。

いま懸命に静止画の写真撮影術を学んでも、その頃には大きく変わっている可能性があります。

また2016年は「VR元年」と言われました。数年前の立体テレビは二千円札と同じくらい普及しませんでしたが、いまのVRの台頭はホンモノのように思います。

静止画、動画、だけでなく、立体映像を一般市民が専門技術なしに撮影できるようになる時代もそう遠くないでしょう。

静止した2次元のものが中心だったアートは、時間軸が加わり、さらには立体化、3次元化していきます。

不思議なもので、人間は視覚と聴覚にまつわる創作をアートと呼び、味覚、嗅覚、触覚はあまりそう呼ばない傾向があります(もちろん芸術的と呼ばれる料理、香水等は多数あります)。

しかし、これからのアートには、残りの3感が積極的に取り入れられていく可能性があるように私は思います。少なくとも、その余地は多分にあります。

現代社会では、視覚、聴覚、そして言語を使う才能(読み書き読解を含め)、運動能力は、小さい頃ころから伸ばそうとしますが、それ以外の感覚にまつわる能力を積極的に伸ばそうとする人は少数です。

味覚、嗅覚、触覚といった、いまの学校教育ではさほど重要視されていないところに能力がある人は当然いるわけで、我々の将来と、全身体的な能力を考えると、もっともっと開発されていいのではないかと私は考えます。

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2017年3月 3日 (金)

写真のよろこび、音楽や演劇のよろこび

4/30に南青山マンダラで、新作の音楽劇「慈眼寺」と、おかげさまで数えるのもめんどうなほど再演し、毎度好評いただいているコメディの音楽劇「さまよえる魂」を上演する。

このブログを読んでくださる方の多くは、私を写真家だと思っていてくださっていると思う。それはそれでもちろんありがたく、私のひとつの側面はたしかに写真家。

しかし4/30の舞台は、脚本・作曲・演出を担当するお芝居。写真は一切出てこない。

写真を始める前から作曲をしていて、お芝居に音楽をつける仕事を多くやらせてもらっていた。やっていくうちに、演出家のリクエストに応えるのではなく、自分の好きなところに好きな音楽を、しかも生音でつけるということをやり始めた。

「さまよえる魂」は私の何作目かのオリジナル音楽劇で、2002年か2003年の初演(写真を始める前のこと)。その後何度も再演していて、最後は2015年かな。

「慈眼寺」は、司馬遼太郎さんの「峠」の主人公にもなっている河井継之助にまつわるお芝居で、場面は明治維新。シンプルながら、これまでにやったことのないアプローチで取り組んでいる。

どちらも1人〜2人芝居の小さな舞台だが、佐々淑子、かねこはりいという実力派の俳優がやるから、作者でありながら、毎度イマジネーションがびしばし刺激される。

詳細はまた別の記事で。

ところで、写真や絵をつくって展示することのよろこびと、音楽をつくって自分で演奏することのよろこび、音楽をつくって演奏家に演奏してもらうことのよろこび、芝居をつくって演じてもらうことのよろこびは、それぞれまったく違う。質と量両面において。

写真や絵は自分のなかで完結するけれど、つくった音楽や芝居は、自分の枠から外に出て、奏者演者が作者の予想を超えた領域に運んでくれる。どちらが優れているということでなく、異質なよろこびである。

だからどれをどれほどやっても飽きない。しかも満足することもないから、また次をやろうと思うのだ。

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2017年2月21日 (火)

未知のものにあえて取り組む

ものづくりをしていて、ときどき自らチェックしているのが、知らず知らずのうちによく知っている範囲内で片付けてしまっていないか、ということ。

「知らず知らずに知っている」という矛盾するような言い方だが、作者が未知のものにワクワク、ドキドキして取り組んでいないと、オーディエンスはもっと退屈かもしれない。

仮にそれが、プロデューサーやクライアントの無茶なリクエストに応えるということだとしても(ワクワクじゃなくて、ムカムカかもしれないが)、それは作者にとっては「未知」なわけで、そういうことは案外大切なんじゃないかと思ったりする。

ミュージシャンのヲノサトルさんは、ご自身のブログでこのようなことを書いておられる。

大学で担当する授業で、かつては学生に課す映像制作のテーマを自由にしていた。そのときは「自分自身」をテーマにする学生が多く、観せられる側としては「ああ、こういうセンスなんだ…」としか言いようがなかった。ところが、テーマを「他人」にしたところ、作品ががぜん面白くなった、と。

「『他人』がテーマだと、撮ってる『自分』には理解できない何かが撮影中に発生し始める。そのとき作者=撮り手は何かを考えたり解釈したり、揺らぎ始めざるを得ない。その変化が映像に刻み込まれる。そこが面白い。」

あと、もう1つよくある既知の範囲に収まることと言えば、本人は思いっきりオリジナルの表現をしたつもりなのに、よくあるパターンだったり、誰かのモノマネっぽかったりすること。

これはもう、日頃からどれくらい好奇心を持って未知のものをインプットしているかの問題だ。インプットが少ない人が簡単に思いつくことは案外既にいろんな人がやっているものだ(もちろん例外もあるけどね)。

ちなみに、私が教えてきた範囲を見る限り、未知のこと、新しいことをやろうとすると、何かを「重ねる」というアプローチをする人がけっこういる(レイヤーやエフェクトを重ねるなど)。あとは「あいまいにする」というアプローチ。どちらも別にわるいことではないが、重ねて非現実感出してみました、あいまいにしてアートっぽくしてみました、という「よくあるパターン」に陥る可能性が高い。やるならもっとつっこまないとね。

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2017年2月16日 (木)

量は努力じゃない

量のない質はないと思っていて、そういうことを口にすると、マッチョ、ストイック、あるいはSかMかみたいなニュアンスに捉えられて困ることがある。そういうことではなくて、好きで好きでたまらなくて、放っておいてもどんどんやってしまうというようなことになかに、キラリと光るものが生まれてくると思っている。

スポ根よろしくむち打って血の千本ノックとかじゃなくて、寝食も忘れるほど好きなことには質が伴う可能性がある。あるいは職人が毎日一定の緊張感のなか同じ作業を繰り返していくなかで質が上がっていく。

何度も話しているが、私は中学生の頃から料理をしていて、今も毎日2食は家族のためにつくる。だから、キャリアと量からすれば、さぞ質も高いだろうと思われがちだが、実際はそんなこともない。理由は簡単。料理は、好きで好きでたまらなくてやっているわけでもないし、緊張感もないからだ。その証拠に、つくらなくていい環境に行くと氣が向いたときしかつくらなくなる。

質のよい作品をつくる人に量があることはだいたい共通している。しかも、つくる量はもちろんだが、どんなジャンルの人でも、その人の人生のある時期に、すごい量の「インプット」があった点も共通している。それも、わりと偏った「好きで好きでたまらない」ものばかりインプットしたことが。例えば高校生のとき毎日毎日特定の指揮者のレコードを片っ端から覚えるほど聴いたとか。

ものづくりをする上での量の話をすると、とにかくたくさんつくること(アウトプット)だと思われたり、日本の学校給食のようにいろんな栄養をまんべんなくインプットすることだと思われがちだが、そうではない。どちらかといえば、すごい量の偏食があったうえでの、すごい量の、偏ったアウトプット。

私もいろんなジャンルのものづくりを経験したが、インプット/アウトプットどちらにおいても、量がこなせるジャンルとそうでないジャンルがある。そこで思うのは、量をこなせるジャンルは向いているし、こなすのが苦痛になるジャンルは向いていないということ。その場合はあきらめるか違うやり方を試すのがいいと思っている。そういうのは努力とはちょっと違う。

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2017年2月 4日 (土)

トーン、密度、流れ

ここのところやっていることと言えば、2/14のライヴのための作曲やリハーサル、日々の写真撮影、展示用の写真制作、執筆、写真を教えたり、創造性ワークショップをやったり。そして、4月にやる芝居の脚本もずっと書いていた(もちろん、日々の家事や育児も)。

作曲、写真、文章、脚本、それぞれちがうことのようにも思えるだろうが、共通点はたくさんある。そして、どれについても共通して意識しているのは、トーン、密度、流れ。

かつてはモチーフにずいぶん依っていた私も、今はモチーフに頼らないつくり方が面白い。モチーフとは、作曲ならメロディ、写真なら被写体、脚本なら登場人物とか場面設定。

もちろん、モチーフは大切。おろそかにしてはいない。だが、モチーフだけで何かを語ろうとか、モチーフで琴線に触れようとか思わなくなっている。

第一に意識している「トーン」とは、作曲なら音色、写真なら色合い、文章・脚本なら言葉遣い。どの仕事でも、パレットで色をつくるかんじでやっている。そして、五感を大切にしている。説明なしに感じ取れる感覚。

「密度」とは、先日から話している語りすぎない技術にも関わることで、適度な緊張感と緩急、そしてスペース。すごく感覚的なものなので説明がむずかしいが、作曲と写真は絵筆で塗る感じ、文章や脚本は織り合わせるようにそれらをつくっている。

最後の「流れ」とは、時空をどう活かすかということ。時間軸がつくりだす力学、空間がつくりだす力学をできるだけうまく使ってつくる。音楽のリズム、脚本の物語もこれにあたる。

以上、すべて感覚的直観的にやっていることをあえて言葉にしたまでのことなので、読者の皆さまにはすごく分かりづらいだろう。上手くできているかどうかももちろんわからない。念のため付け加えておくと、私がこういうことを理屈っぽく最初から考えてものをつくっているわけではないことは誤解なきよう。つくっているときは考えてなくて、全部後付けの説明。言葉をしゃべるときに文法をほとんど考えないのといっしょ。

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Pray 〜世界に魅せられた者たちのライヴ6
2/14 南青山マンダラ
https://www.facebook.com/events/1822434091348916/

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2016年3月16日 (水)

向いている仕事とは

小学生のとき、将来やりたい仕事は?と訊かれると「野球選手」と「漫画家」と答えていたように思います。

野球選手は当時の小学生男子の半分くらいはなりたいと言っていたように思うのですが(個人の印象です)、漫画家はどうだったのでしょう。

そんな小学時代のある時期、友人たちと競うようにマンガを描いていました。小学生にしてはけっこうな量を描いていたように思います。

もし私が写真のトレーニングを人生のどこかで積んだことがあるとしたら、たぶんそのときです。

マンガは、コマの中にどうやって人物を配置するかで印象が変わります。それはつまり構図です。たとえば、どうやったら迫力が出るかとか、悲しい印象になるかとか、小学生なりの最高のスピードと発想で考えて描いていったわけです。

今写真をやっていて、意図があれば、写真のなかの人物の、たとえば頭を切ったとしても抵抗がないのは、たぶんそのとき自然に身に付けたことです。

実際、大人になって、マンガを描く仕事を1、2回やったことがあります。

あるとき、もしかして写真についてのマンガが描けるかも、おもしろいかもと思ったことがあります。

でも、マンガを描くのは、かなり緻密な作業です。1つくらいは描けるだろうけど、2つ3つ続ける自信はありません。なのでこのときは、モチベーションが行動に移るところまでは行きませんでした。つまり、めんどくさくなって諦めちゃいました。

向いている仕事というのはたぶん、たとえ緻密で時間がかかっても、周囲からはめんどくさい仕事に見えても、よろこんでできる、腰が軽い、継続できる、飽きない、そういう仕事なんだろうなと思います。

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2016年3月 8日 (火)

何が人の心を打つのか

国連で働きたくて大学では国際法を学んだものの、卒業間際に、ここで作曲をやらなくては一生後悔すると思い、作曲家(すずきみゆき先生)に弟子入りし、以来、紆余曲折はありましたが(その10年後に写真を始めるとか)ずっとものづくりをやっています。

その間考え続けている(そして未だに明確な答えの出ていない)問いが、「何が人の心を打つのか」です。

この問いを考えるときに必ず思い出すのが、ソニーの創業者の1人、故・盛田昭夫さんの英語スピーチを聴いたときのことです。

十代でソニーの奨学金をいただいて留学した経緯で、大学時代のあるとき、ソニー本社に呼ばれ、大勢の奨学生OB、現役生とともに、盛田さんの話を生で聴く機会を得ました。

盛田さんの英語の「発音」はジャパニーズイングリッシュそのもの。発音だけ取れば、決して上手というわけではありません。それもそのはず。大人になってから身につけた言語なのですから。

ところが、言葉一つひとつが響いてきて、私たちの心を打ったのでした。

理由はたくさんあると思いますが、第1に、口にされたのが盛田さん「自身の言葉」であるということ。それは、経験に裏打ちされた内容と語彙による言葉。「多国籍企業」という言葉がまだないころから第一線で積んできた経験です。仮に同じ内容を誰かが代理で読んだとしたら、はたして感動できたかわかりません。

第2に、シンプルでクリアな語法であること。ネイティヴのように流暢でないことを逆手にとった語り口です(もちろんご本人にそのつもりはないでしょうが)。

そして第3に、伝えたいことがはっきりあって、それを伝えるという意志にもとづいて語っているということ。

この経験ではっきりわかったのは、技術(この場合は英語を話す技術)はある程度は必要なものの、技術を極めていった先に感動があるわけではないということです。

もちろん技術がなければ何も伝わりません。非常に大切です。でもそれがすべてではないということです(ただし、それを技術を身につけないことの言い訳にしてはいけません)。

その後、それまで専門教育を受けたことなく音楽を学び始めるにあたって、楽器奏法をはじめとする技術にコンプレックスのあった私は、このときのことを思い出しては大いに励まされ、盛田さんの英語スピーチのように音楽を奏でたいと思ったのでした。

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2016年2月15日 (月)

考える、考えない

写真に限らず、アートは「考えずにやれ」という話はよく聞きます(スポーツでもビジネスでも)。よく考えろという話も一方では聞きます。

個人的には、「考える、考えない」の1か0かではなく、考えることで創作の領域が広がるなら大いに考えるべきで、制限されるなら(萎縮するなら)考えることをやめるべきだと思っています。

ロジックにあてはめてものをつくろうとして、そのうちがんじがらめになってしまうことは、たしかにあります。コンセプトをつくったためにかえって小さくまとまってしまうケースもあります。そういうときはきっと、考えるのをやめるべきなのでしょう。

他方、作品を知的に構築すること、たとえば歴史的な文脈や、ドキュメンタリーとしての要素を持たせることも、創作の可能性の1つです。それは、感性だけでは届かない領域に作品を運んでくれることでしょう。また、文法や構造を意識することで、伝わりやすくなることもあります。

ところで、坂本龍一さんがあるとき、作曲しているときに脳波を取る実験を行ったそうです。ご本人は右脳が盛んに働いているんじゃないかと期待したそうですが、実験結果は、予想以上に左脳が働いていたそうです。つまり、坂本さんにとっての作曲は、論理的、言語的に考える要素が多分に含まれる活動だったのです。そして、別な作曲家が計測すれば、きっと違う結果が出るでしょう。

感覚と論理の理想的なバランスは、人それぞれ違います。同じ人でも成長段階に応じて異なるでしょう。感性のままつくりつづけてうまくいく場合もいれば、壁にぶつかる場合もあります。同じ人の作品でも、感覚的な作品もあれば、知的な作品もあっていいでしょう。

また、個人的にいろんな形態のアートに関わってきて実感するのが、ひとつの作品のなかでも、知性を使う箇所もあれば、感性を使う箇所もあるということです(たとえば作曲で、旋律を決めるときと音色を決めるときでは、使っている能力が違うように思います)。

創作領域が一番広がるバランス、能力が発揮できる知性と感性のバランスを、その都度その都度、模索し続けるということでいいのではないでしょうか。

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