ものづくりについて

2017年2月21日 (火)

未知のものにあえて取り組む

ものづくりをしていて、ときどき自らチェックしているのが、知らず知らずのうちによく知っている範囲内で片付けてしまっていないか、ということ。

「知らず知らずに知っている」という矛盾するような言い方だが、作者が未知のものにワクワク、ドキドキして取り組んでいないと、オーディエンスはもっと退屈かもしれない。

仮にそれが、プロデューサーやクライアントの無茶なリクエストに応えるということだとしても(ワクワクじゃなくて、ムカムカかもしれないが)、それは作者にとっては「未知」なわけで、そういうことは案外大切なんじゃないかと思ったりする。

ミュージシャンのヲノサトルさんは、ご自身のブログでこのようなことを書いておられる。

大学で担当する授業で、かつては学生に課す映像制作のテーマを自由にしていた。そのときは「自分自身」をテーマにする学生が多く、観せられる側としては「ああ、こういうセンスなんだ…」としか言いようがなかった。ところが、テーマを「他人」にしたところ、作品ががぜん面白くなった、と。

「『他人』がテーマだと、撮ってる『自分』には理解できない何かが撮影中に発生し始める。そのとき作者=撮り手は何かを考えたり解釈したり、揺らぎ始めざるを得ない。その変化が映像に刻み込まれる。そこが面白い。」

あと、もう1つよくある既知の範囲に収まることと言えば、本人は思いっきりオリジナルの表現をしたつもりなのに、よくあるパターンだったり、誰かのモノマネっぽかったりすること。

これはもう、日頃からどれくらい好奇心を持って未知のものをインプットしているかの問題だ。インプットが少ない人が簡単に思いつくことは案外既にいろんな人がやっているものだ(もちろん例外もあるけどね)。

ちなみに、私が教えてきた範囲を見る限り、未知のこと、新しいことをやろうとすると、何かを「重ねる」というアプローチをする人がけっこういる(レイヤーやエフェクトを重ねるなど)。あとは「あいまいにする」というアプローチ。どちらも別にわるいことではないが、重ねて非現実感出してみました、あいまいにしてアートっぽくしてみました、という「よくあるパターン」に陥る可能性が高い。やるならもっとつっこまないとね。

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2017年2月16日 (木)

量は努力じゃない

量のない質はないと思っていて、そういうことを口にすると、マッチョ、ストイック、あるいはSかMかみたいなニュアンスに捉えられて困ることがある。そういうことではなくて、好きで好きでたまらなくて、放っておいてもどんどんやってしまうというようなことになかに、キラリと光るものが生まれてくると思っている。

スポ根よろしくむち打って血の千本ノックとかじゃなくて、寝食も忘れるほど好きなことには質が伴う可能性がある。あるいは職人が毎日一定の緊張感のなか同じ作業を繰り返していくなかで質が上がっていく。

何度も話しているが、私は中学生の頃から料理をしていて、今も毎日2食は家族のためにつくる。だから、キャリアと量からすれば、さぞ質も高いだろうと思われがちだが、実際はそんなこともない。理由は簡単。料理は、好きで好きでたまらなくてやっているわけでもないし、緊張感もないからだ。その証拠に、つくらなくていい環境に行くと氣が向いたときしかつくらなくなる。

質のよい作品をつくる人に量があることはだいたい共通している。しかも、つくる量はもちろんだが、どんなジャンルの人でも、その人の人生のある時期に、すごい量の「インプット」があった点も共通している。それも、わりと偏った「好きで好きでたまらない」ものばかりインプットしたことが。例えば高校生のとき毎日毎日特定の指揮者のレコードを片っ端から覚えるほど聴いたとか。

ものづくりをする上での量の話をすると、とにかくたくさんつくること(アウトプット)だと思われたり、日本の学校給食のようにいろんな栄養をまんべんなくインプットすることだと思われがちだが、そうではない。どちらかといえば、すごい量の偏食があったうえでの、すごい量の、偏ったアウトプット。

私もいろんなジャンルのものづくりを経験したが、インプット/アウトプットどちらにおいても、量がこなせるジャンルとそうでないジャンルがある。そこで思うのは、量をこなせるジャンルは向いているし、こなすのが苦痛になるジャンルは向いていないということ。その場合はあきらめるか違うやり方を試すのがいいと思っている。そういうのは努力とはちょっと違う。

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2017年2月 4日 (土)

トーン、密度、流れ

ここのところやっていることと言えば、2/14のライヴのための作曲やリハーサル、日々の写真撮影、展示用の写真制作、執筆、写真を教えたり、創造性ワークショップをやったり。そして、4月にやる芝居の脚本もずっと書いていた(もちろん、日々の家事や育児も)。

作曲、写真、文章、脚本、それぞれちがうことのようにも思えるだろうが、共通点はたくさんある。そして、どれについても共通して意識しているのは、トーン、密度、流れ。

かつてはモチーフにずいぶん依っていた私も、今はモチーフに頼らないつくり方が面白い。モチーフとは、作曲ならメロディ、写真なら被写体、脚本なら登場人物とか場面設定。

もちろん、モチーフは大切。おろそかにしてはいない。だが、モチーフだけで何かを語ろうとか、モチーフで琴線に触れようとか思わなくなっている。

第一に意識している「トーン」とは、作曲なら音色、写真なら色合い、文章・脚本なら言葉遣い。どの仕事でも、パレットで色をつくるかんじでやっている。そして、五感を大切にしている。説明なしに感じ取れる感覚。

「密度」とは、先日から話している語りすぎない技術にも関わることで、適度な緊張感と緩急、そしてスペース。すごく感覚的なものなので説明がむずかしいが、作曲と写真は絵筆で塗る感じ、文章や脚本は織り合わせるようにそれらをつくっている。

最後の「流れ」とは、時空をどう活かすかということ。時間軸がつくりだす力学、空間がつくりだす力学をできるだけうまく使ってつくる。音楽のリズム、脚本の物語もこれにあたる。

以上、すべて感覚的直観的にやっていることをあえて言葉にしたまでのことなので、読者の皆さまにはすごく分かりづらいだろう。上手くできているかどうかももちろんわからない。念のため付け加えておくと、私がこういうことを理屈っぽく最初から考えてものをつくっているわけではないことは誤解なきよう。つくっているときは考えてなくて、全部後付けの説明。言葉をしゃべるときに文法をほとんど考えないのといっしょ。

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Pray 〜世界に魅せられた者たちのライヴ6
2/14 南青山マンダラ
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2016年3月16日 (水)

向いている仕事とは

小学生のとき、将来やりたい仕事は?と訊かれると「野球選手」と「漫画家」と答えていたように思います。

野球選手は当時の小学生男子の半分くらいはなりたいと言っていたように思うのですが(個人の印象です)、漫画家はどうだったのでしょう。

そんな小学時代のある時期、友人たちと競うようにマンガを描いていました。小学生にしてはけっこうな量を描いていたように思います。

もし私が写真のトレーニングを人生のどこかで積んだことがあるとしたら、たぶんそのときです。

マンガは、コマの中にどうやって人物を配置するかで印象が変わります。それはつまり構図です。たとえば、どうやったら迫力が出るかとか、悲しい印象になるかとか、小学生なりの最高のスピードと発想で考えて描いていったわけです。

今写真をやっていて、意図があれば、写真のなかの人物の、たとえば頭を切ったとしても抵抗がないのは、たぶんそのとき自然に身に付けたことです。

実際、大人になって、マンガを描く仕事を1、2回やったことがあります。

あるとき、もしかして写真についてのマンガが描けるかも、おもしろいかもと思ったことがあります。

でも、マンガを描くのは、かなり緻密な作業です。1つくらいは描けるだろうけど、2つ3つ続ける自信はありません。なのでこのときは、モチベーションが行動に移るところまでは行きませんでした。つまり、めんどくさくなって諦めちゃいました。

向いている仕事というのはたぶん、たとえ緻密で時間がかかっても、周囲からはめんどくさい仕事に見えても、よろこんでできる、腰が軽い、継続できる、飽きない、そういう仕事なんだろうなと思います。

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2016年3月 8日 (火)

何が人の心を打つのか

国連で働きたくて大学では国際法を学んだものの、卒業間際に、ここで作曲をやらなくては一生後悔すると思い、作曲家(すずきみゆき先生)に弟子入りし、以来、紆余曲折はありましたが(その10年後に写真を始めるとか)ずっとものづくりをやっています。

その間考え続けている(そして未だに明確な答えの出ていない)問いが、「何が人の心を打つのか」です。

この問いを考えるときに必ず思い出すのが、ソニーの創業者の1人、故・盛田昭夫さんの英語スピーチを聴いたときのことです。

十代でソニーの奨学金をいただいて留学した経緯で、大学時代のあるとき、ソニー本社に呼ばれ、大勢の奨学生OB、現役生とともに、盛田さんの話を生で聴く機会を得ました。

盛田さんの英語の「発音」はジャパニーズイングリッシュそのもの。発音だけ取れば、決して上手というわけではありません。それもそのはず。大人になってから身につけた言語なのですから。

ところが、言葉一つひとつが響いてきて、私たちの心を打ったのでした。

理由はたくさんあると思いますが、第1に、口にされたのが盛田さん「自身の言葉」であるということ。それは、経験に裏打ちされた内容と語彙による言葉。「多国籍企業」という言葉がまだないころから第一線で積んできた経験です。仮に同じ内容を誰かが代理で読んだとしたら、はたして感動できたかわかりません。

第2に、シンプルでクリアな語法であること。ネイティヴのように流暢でないことを逆手にとった語り口です(もちろんご本人にそのつもりはないでしょうが)。

そして第3に、伝えたいことがはっきりあって、それを伝えるという意志にもとづいて語っているということ。

この経験ではっきりわかったのは、技術(この場合は英語を話す技術)はある程度は必要なものの、技術を極めていった先に感動があるわけではないということです。

もちろん技術がなければ何も伝わりません。非常に大切です。でもそれがすべてではないということです(ただし、それを技術を身につけないことの言い訳にしてはいけません)。

その後、それまで専門教育を受けたことなく音楽を学び始めるにあたって、楽器奏法をはじめとする技術にコンプレックスのあった私は、このときのことを思い出しては大いに励まされ、盛田さんの英語スピーチのように音楽を奏でたいと思ったのでした。

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2016年2月15日 (月)

考える、考えない

写真に限らず、アートは「考えずにやれ」という話はよく聞きます(スポーツでもビジネスでも)。よく考えろという話も一方では聞きます。

個人的には、「考える、考えない」の1か0かではなく、考えることで創作の領域が広がるなら大いに考えるべきで、制限されるなら(萎縮するなら)考えることをやめるべきだと思っています。

ロジックにあてはめてものをつくろうとして、そのうちがんじがらめになってしまうことは、たしかにあります。コンセプトをつくったためにかえって小さくまとまってしまうケースもあります。そういうときはきっと、考えるのをやめるべきなのでしょう。

他方、作品を知的に構築すること、たとえば歴史的な文脈や、ドキュメンタリーとしての要素を持たせることも、創作の可能性の1つです。それは、感性だけでは届かない領域に作品を運んでくれることでしょう。また、文法や構造を意識することで、伝わりやすくなることもあります。

ところで、坂本龍一さんがあるとき、作曲しているときに脳波を取る実験を行ったそうです。ご本人は右脳が盛んに働いているんじゃないかと期待したそうですが、実験結果は、予想以上に左脳が働いていたそうです。つまり、坂本さんにとっての作曲は、論理的、言語的に考える要素が多分に含まれる活動だったのです。そして、別な作曲家が計測すれば、きっと違う結果が出るでしょう。

感覚と論理の理想的なバランスは、人それぞれ違います。同じ人でも成長段階に応じて異なるでしょう。感性のままつくりつづけてうまくいく場合もいれば、壁にぶつかる場合もあります。同じ人の作品でも、感覚的な作品もあれば、知的な作品もあっていいでしょう。

また、個人的にいろんな形態のアートに関わってきて実感するのが、ひとつの作品のなかでも、知性を使う箇所もあれば、感性を使う箇所もあるということです(たとえば作曲で、旋律を決めるときと音色を決めるときでは、使っている能力が違うように思います)。

創作領域が一番広がるバランス、能力が発揮できる知性と感性のバランスを、その都度その都度、模索し続けるということでいいのではないでしょうか。

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2016年1月23日 (土)

住するところなきを、まず花と知るべし

「初心忘るべからず」という言葉を誰もが聞いたことがあるでしょう。父・観阿弥がつくった能を完成させたと言われる世阿弥が言った言葉です。

世阿弥は幼少期に今風の言葉でいえば「アイドル」で「ちやほや」されたのですが、人生のある時期、時の権力者に「disられた」人物です。

能という「ミュージカル」あるいは「オペラ」は、世阿弥がアイドルに甘んじることなく緻密につくりあげて、完成しました。台詞、歌、音楽、踊りが高レベルで一体となった能は、世界中見渡してもおそらく他に例がありません。

たとえば能のなかの音楽ひとつ取っても、誰も楽譜を見ていないので、即興的要素が強いと思われがちですが、実はほぼすべてが計算され、決められています。

そこには、世阿弥の非常に「現実的な」思考の影響が、多かれ少なかれあるのかもしれません。

世阿弥の言葉として残されている「風姿花伝」は、もともとは門外不出の書物で、一般の人は見るはずのないものだったのですが、それが世に出て、世阿弥の言葉が我々にも届くようになりました。

それらは元アイドルの浮ついた言葉ではなく、現代にも通じる「地に足のついた」言葉です(能楽師がかかとをつけて摺り足で歩くのは偶然ではないのかもしれませんね)。そのごくごく一部をご紹介します。


「稽古は強かれ、情識はなかれ」

稽古はしっかりやりなさい。ただし、それに慢心してはならない、という意味です。

努力してつかみ取ったものは自分のものになるのですが、人はその上にあぐらをかいたり、へんなプライドを持ったりしやすいのではないでしょうか。世阿弥はそのことに注意を促しています。


「住するところなきを、まず花と知るべし」

常に変化しつづけることが、最も輝く方法だという意味です。

世阿弥のいう「花」とは、「芸の中心」「その人の輝き」などを指す抽象度の高い言葉ですが、芸事に限らず、ビジネスでも人間関係でも、花は欠かせません。

いくつになってもどのようなステージにおいても、一カ所に安住することなく、変化し続け、その場そのときにしかない花を持ちたいものです。

アイドルからスタートし、人生の局面局面で最も輝く方法を探っていった世阿弥ならでは言葉だと思います。

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2015年6月19日 (金)

みるということ

写真が被写体の時間を固定することで純化、結晶化を行う一方で、写実絵画は絵画であることに起因する矛盾に直面し「みる」「みえない」の完了せざる運動の中で純化、結晶化が行われるのである。」(ACCETORY 三宅隆平)

写真家はどれほど絵画のことを意識するのか。他の写真家のことはわからないが、少なくとも私の場合、絵画のことは常に心のどこかにある。

その理由は育った背景にある。十代の頃米国で絵画を学び、そのまま米国に残っていれば奨学金をもらって大学でアートを専攻したんじゃないかと思う(そのころの私はまだカメラを手にしていない)。

けっきょくは日本に戻って大学では国際法と難民問題を学んだ。その後作曲を学び、写真を知ったのは、そのずいぶんあとになってから。

20年ちかく遠回りをしてから「ビジュアルアート」に再び接してみると、十代の頃に感じていたこととはちがうことを感じるようになった。写真から絵画をみると多くの発見があり、その逆もそうだった。

それは非常に興味深い体験だったが、両者の違いをなかなか言葉にできないままでいた。それをうまく表現してくれていたのが冒頭に引用した以下の記事である。

「なぜ写真ではなく絵なのかー諏訪敦『どうせなにもみえない』からリアリズム絵画を考えてみる」 https://accetory.jp/articles-080

この記事のタイトルは「なぜ写真でなく絵なのか」となっているが、私はいつも「なぜ絵でなく写真なのか」を自問している。答えは日々流動的で結論はでていないが、絵と写真とでは、何かが決定的に違うことだけはわかっている。そのひとつの要素が「みる」ということだ。

この記事によると、アントニオ・ロペスはあの名作を朝20分間、7年かけて描いたという。

諏訪敦さんやロペスの作品からは、作者が「みる」ということに莫大な時間をかけていることが直感的に分かる。

また、写真では機械とフィルムまたはソフトウェアが瞬時に行う「解像する」という作業を、絵画では作者がやっている。この「解像する」ということが、実は絵画、写真のひとつの肝だと思っている私は、両者のプロセスの違いの大きさにあらためて打ちのめされている。

諏訪さんの作品集のタイトル「どうせなにもみえない」は、肉眼で(また知性で)極限まで解像していったことのある者にしか説得力を持って言い得ない言葉だろう。

また、絵画のプロセスにおいては、解像するのに長い時間がかかる。それはつまり、その間に被写体が動き、光が変化することも意味する。絵画ではつねに変化して見えるものから作者がそれらの「近似値」を出すことが求められる。近似値というと無機質にも聞こえるが、著者の言葉でいえば、それもひとつの純化、結晶化のかたち。

では、写真において「みること」とは何なのか。写真家は、私は、何をみて、なにをみていないのか。

永い創意工夫のあとスタイケンが写真はアートではないと結論づけた理由も、いまではよくわかる。

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2014年12月26日 (金)

影響力

2014年も多くの人の作品を見たし、多くの授業を持った。そこで感じたのは「誰もが影響力を持ち得る。1人の例外もなく」ということだ。

初心者だと謙遜する人の楽しくてしょうがないことが伝わってくる作品を見れば、ベテランは自分ももう一度あのように熱くなりたいと思うかもしれない。

自分は地味なベテランだと思っている人のていねいな作風を見れば、初心者は自分もこのように作品をコントロールできるようになりたいと思うかもしれない。

ユーモアが個性の人に、マジメな人はコンプレックスを感じるかもしれない。

シリアスな作品が得意な人に、軽いタッチのものしかつくれない人はやられたと思うかもしれない。

このように、その人が真剣に取り組んだ作品からは、何かしらの学びや発見があり、周囲の人々はそれに多かれ少なかれ影響を受ける。

私が自分の写真ゼミやクラスでやりたいと思っていることは、その人のもつ影響力を見つけ出し、それをグループでシェアするということだ。

もちろん、私も否定的なことを言ったりもする。だが、誰もが光るものを持っている、誰もが周囲に影響力を持ち得るという前提に立って1人ひとりの作品を見ると、例外なくはっとするものがある。それは非を糾弾する仕事ではなく、声なき声を聞き出す仕事。2015年はもっと代弁ができるように、もっとその声を拡大できるようにしたい。

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2014年11月26日 (水)

シンプリシティ

写真をつくればつくるほど、音楽をつくればつくるほど、その根本にあるシンプルな「原理」が大切に思えてくる。

その「原理」とは、写真であれば、光が発せられること、反射すること。それをフィルムが感受して像をつくること、印画紙の銀が黒く化学反応することなど。

音楽であれば、なにかを摩擦したときや叩いたとき、音が生じるということ。それが空氣を経て、空間で反射し、鼓膜を振動させること、抽象的な振動の連続が聴き手の脳内でなにかのイメージに変換されることなど。

それらを四角い媒体のどこに配置するか(つまり構図)とか、時間軸上のどこに配置するか(曲)ということももちろん大切だ。しかし、それ以前の、光や音が発せられる瞬間のドラマ、向こうからやってきて再び去っていくかりそめだがリアルな姿、それらをどうつくり、とらえることができるか、いかに共有できるかということが、やればやるほど大切なことに思えてくる。

デジタル写真も、打ち込み音楽もつくる私だが、発想の原点は、写真ならばフィルムと印画紙、音楽なら生楽器。粒子が現像液のなかで立ち上がる瞬間、音が弦楽器から立ち上がる瞬間、その奇跡を、その感動を、忘れてはならないと思う。

昨夜も能の舞台を観に行った。お囃子、つまりバックの楽器は、きれいな音を出すこと以上に、弾き手の呼吸を合わせることが大切にされているという。張りつめた空氣のなかで次第に曲のテンポが上がっていく。それにつれ全員でひとつの有機体のような演奏になっていく。

その軽やかなうねりのような波のような音に乗っかるように、シテが舞う。音に乗るだけでなく、時折その流れに竿を挿すように垂直に飛び、大地とつながるように音をたてて着地する。

観客はその一部始終を全身で感じる。面の奥でシテの声が発せられる。面を通したわずかにこもった声が、その息遣いが、雨の夜の空氣を伝って我々の胸に響く。

そのシンプルさ。名人の技ほど、シンプリシティの美を人に伝える。

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