道具について

2012年10月16日 (火)

カメラと尺八

以前の記事で、私の標準レンズは35ミリレンズで、しかもいまだ使いこなせている感じがしないと書いた。

ついでに言えば、私の標準カメラは、そのレンズをつけた「レンジファインダー」と呼ばれるものがついているカメラで、一眼レフではない。

一眼レフというのはいわば望遠鏡みたいなもので、ファインダーを覗くと、レンズに入ってくる光がそのまま見えるので、正確な画づくりがしやすい。それに対しレンジファインダーというのは、雑に言えば写ルンですの覗き窓みたいなもので、レンズに何が映っているかが分からない。ファインダーに見えているのは「だいたいこんなかんじ」程度の図で、正確なフレーミングができない。

だったら一眼レフのほうがいいんじゃないかといまだ人に言われるし、自分でもそうだよな思うのだが、どうも一眼レフが好きになれない。一眼レフ愛用者が圧倒的に多い中で、私に限ってなぜそれが苦手なのか理由をずっと考えているが、うまく言葉にならない。生理的に苦手、としか言えない(そもそもレンジファインダーカメラがこの世に存在していなかったら、おそらく今でも写真は撮ってなかったと思う)。

それに対し、レンジファインダーをなぜ好きかは、ようやく少々自己分析できるようになった。

ヒントは、意外ながら、尺八にあった。

西洋の楽器が、音を出しやすいように、澄んだ音がでるように進化してきたのに対し、一部の邦楽器は、音をわざと出しづらいように、濁った音が出るように進化(?)してきている。その最たる例が、尺八である。

尺八にはもともと6つの穴があいてた。ところが、あるときから、穴の数が一つ減って5つになった。5つの穴で、6つのときと同じ曲を吹くのであるから、当然技術的には難しい。

だが人は、不便さの先にあったその音色に、さらりと出した音以上の「何か」を聴いたのだろう。

同じようなことを私は、レンジファインダー機と35ミリレンズに感じているのかもしれないと思った。なかなか思うように撮れないが、道具として氣に入っているし、信頼している。根氣よく使い続けていると、たくさんの失敗作の中にときどき、思いもよらぬ「何か」が写っている写真が混じっていて、驚く。

一眼レフやミラーレスのような、はじめから出来上がりの画がファインダーに見えて、100%意図通りに画をつくるタイプのカメラでは感じられない、自分自身の意図やコントロールを超えたものへの驚き。自分で100%コントロールしてないから、自分で撮ったと言う意識も低い。

私は絵を描くときも、油絵のように何度も塗り直しがきくものでなく、水彩画や墨絵のような、乾くまで出来上がりが分からない、やり直しができない類いのものを好む(ちなみに尺八ももちろん好きで、一時期習っていたことがある)。

ある種の不便さのなかから出てくる、ちっぽけな自意識を超えた、一音、一色、一枚への驚きと感動を私は味わいたいのだと、自己分析してみた。

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2012年2月21日 (火)

好きな道具

私は自分のワークショップ参加者に「迷ったときは楽しいほうを選べ」と言っている。それは、たとえばその日撮影する機材を選ぶとき、どっちにしようか迷ったら、楽しいと感じるほうを持ち出せ、ということである。

なぜなら、楽しいと感じる道具だと、それを使うという行為自体が楽しいから、それに没頭できる可能性が高くなるからだ。没頭する時間が長くなれば、自ずと結果がついてくる率も高まる。もし仮に結果が出なかったとしても、充実感は残る。

参加者のなかには職業で写真を撮っている人もいることはいるが、ほとんどの人にとっては趣味か表現活動である。苦痛になっては続かない。

以前どこかで、イチロー選手が小学生に、どうやったら野球が上手になるか訊かれたとき、道具を大切にしなさいと答えたという話を読んだことがある。

道具を大切にし、愛着を持つようになると、人によっては、その道具を使うということについての「パーソナルな意味」が出てくる。使えば使うほど、思い入れが深まり、もっと使ってみたいと思うようになる。こういう風に使ったらもっと上手になるかもしれないというアイディアも出てくる。

この「もっと使ってみたい」という氣持ちが、物事の上達には大切だと思う。なぜなら、プロセスが楽しいと自然に「量」が増え、その結果「質」もついてくるからだ。

私は、本人が望まない限り、初心者に「初心者向け」と呼ばれる道具を勧めない。

それは、かつて私が写真を本格的にやるようになる前、人から勧められた機材を使って、写真を撮るという行為に飽きてしまったことがあるからだ。できれば、その人が「いずれは○○を」と思っている○○そのものを、最初から使ってみることを勧める(ただし「本氣なら」という条件付きで)。

カメラだろうと、楽器だろうと、スポーツの道具だろうと、初心者向けもプロ向けも原理や仕組みは同じ。好きでもない道具に金銭や時間をかけるのはもったいない。はじめから使いたい道具を使って、それを楽しんで使うのがいいと思う。

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2012年1月27日 (金)

おじいちゃんカメラ

最近一部の人が使っている「ガンレフ」とかいう奇妙な言葉の範疇に含まれるのかどうか定かでないが、数日前に生まれて初めて二眼レフカメラを買った。

その戦前製の機械は、各ツマミが何の役割かさえ分かってしまえばマニュアルなしでおおよそ操作できるようなシンプルな構造。電池なんてもちろん必要ない。

シャッタースピードにせよ、フィルム巻き上げにせよ、現代のカメラからみればあらゆる機能が大雑把。人によってはこういうカメラを使っていると不安になるのかもしれないが、私は逆に安心する。

そこには、カメラに詰めたいわゆる中判と呼ばれるサイズのモノクロフィルムが、少々露出が違ったり多少適当に撮ったって写真を成立させてくれるだろうし、往年のレンズが、何を撮ったってそこそこ画にしてくれるだろうという、信頼と言うより甘えに近い安心感も含まれる。

外見にまったく威圧感はないが、当時の先端機器な訳だから、チープな感じもあまりない、適度な距離のある安心感でもある。古いレンズを通してファインダーに見える真四角の映像も、世界をそのまま肯定したくなるやさしさだ。

まだ最初の1ロールを撮り終えたばかりだが、こういうカメラで撮っていると、まるでおじいちゃんと話をしているような感覚になる。こちらがどんな話題で何を話しても「そうかそうか」と穏やかに笑って受け止めてもらっている感覚。12枚しか撮れないから長話はできないけど、とにかくすべてをやさしく肯定してもらえている感覚。

他方デジタルカメラは、ウェブ上でSNSをしているときの感覚に近い。それは、大勢とすごいスピードで情報交換できるが、間違ったことを書いていないか、誰かを傷つけていないか、常に何かを氣にしながら、神経を使って言葉を選ぶ感覚だ。

効率的であることが大切にされるこの社会でのんびりおじいちゃんカメラを使っていると、すごくシンプルだけど大切な「何か」を、我々はどこかに忘れたきりにしてるんじゃないかと感じる。

とか言いつつ、最初のロールは操作を誤って、まともに撮れていなかった。つまり私のせいで、おじいちゃんに話が通じていなかったのだ。だが、それでいいのだ。おじいちゃんとゆっくり話したその時間こそが、貴重だったのだから。

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2012年1月19日 (木)

標準レンズ

「標準レンズ」とは、一般には、35判の50ミリレンズを指す(50ミリという焦点距離をなぜ「標準 (standard)」と呼ぶかは諸説あるが、個人的には、そう呼ばれ始めた当時、技術的につくりやすい焦点距離だったからという説をとる)。

しかし、私の個人的な標準レンズは35ミリだ。それは、初めて自分の意志でほしいと思って買ったレンズが35ミリだったから。それがもし50ミリだったら50ミリが、28ミリだったら28ミリがおそらく自分にとっての標準レンズになっていたはずだ。

そのレンズをある期間、四六時中肌身離さず持ち歩き、徹底的に使っていたものだから(そして今でももっとも多用している)、絞りによってどう描写が変化するかとか、このフィルムのときはこういう使い方をするのがいいとか、道具の個性が経験値として身に付いている。

今でも様々なレンズを使うとき、写りの傾向を常にその「標準レンズ」と較べてしまう。ほかのレンズで撮ったフィルムを現像し、タンクから出してクリップに吊るすとき、まだ濡れているネガを見ながら、自分の標準レンズに較べてコントラストが高いとか低いとか解像感がどうとか考える。そういう意味では、「標準」というより、「基準レンズ」に近い。

ところが、これだけ使っていてもなお、そのレンズを使いこなせている実感がない。いまでも撮るたびに新しい発見と驚き(ネガティヴなものも含めて)がたくさんある。不自由を感じる場面の連続。しかし、だからもっと使ってみようという氣になるのも確かだ。

これだけ次々と新製品が出てくる今日ではあるが、何か一つの道具をとことん使ってみて、それを身体感覚として自分のなかで「標準化」することは、大切なことかもしれない。むしろ、移り変わりが早いがゆえに、自分のなかに基準を持つと言うべきだろうか。なぜなら、基準があれば、新しい道具にも自分なりの使い方で対応できるからだ。

自分ではいまだ使いこなせている感のない標準レンズではあるが、使い続けることで「作風」ができていると言ってくれる人もいる。万能な道具などこの世にない。だからこそ、その不自由さをいい意味で諦め、工夫し、積極的に楽しむ。そういう前向きさが作品にも反映されると思う。

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