学びについて

2016年2月 4日 (木)

見方を変えるヒント

皆さんは、1つの言葉、1つのアイディアがきっかけで、ものの見方が変わるという経験をされたことはありますか?

先日、写真講座「光の時」をやるギャラリーカメリアで、日本画を学んでいるという学生さんとお会いしたとき、ギャラリーのNさんも含め、日本画とはどういう絵を指すかについて話し合いました。

日本画にはいろんな定義があるのですが、私は、日本画(や東洋の絵画)の特徴の1つは、その「重心」にあると思っています。重心については一般的な日本画の定義には入っていません。ですが、私にとっては大切な要素です。

そんな話をしていたら、学生さんには新鮮だったようで、もしかすると彼女にとっての日本画を見直すちょっとしたきっかけになったかもしれません。

人は知らず知らずのうちに、ある特徴をもつ作風を身につけていたり、逆にそこから外れた個性を持っていたりするものです。

それは、1つのヒントがきっかけで自覚できたり、1つの命題を考え続けかたちにし続けるうちに発見できたりします。

上記の「光の時」は、そのようなことができる場にもしたいと思っています(参加される方、おたのしみに)。

ちなみに第1期のときは、光を愛でるという主題のほかに、「抽象」についてみんなで考えてみました。それによって、多くの方が、それまで考えていたものとは「抽象」の概念が変わったとおっしゃいました。

「抽象」は、ゼミやその他のワークショップなどでも、たびたび取りあげている課題ですが、「光の時」では、また違うアプローチをしています(なにしろ相手は「抽象的な」概念ですから、これが正攻法!というのはありません)。

さて、第2期は、どんな課題が出されるのでしょう。

私の手元には既に「お題リスト」がつくってあって、メンバーの顔ぶれを見て、どれを出すか決めるつもりでいます。

どれもおそらく、皆さんがまったく考えたこともないことか、深く考えたことのないことでしょう。それらをきっかけに、世界の見方、そして、ご自分自身にたいする見方が変わるのではないかと思っています。

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2014年11月14日 (金)

スマホを捨てよ、旅に出よう

きわめて個人的な話で恐縮だが、いくつかある人生の転機のなかで、おそらく最も影響力のあったものの1つが、10代のときの米国での生活だと思っている。

それまで旅行はおろか、友人の家に泊まりにいったことさえほとんどなかった自分が、いきなり単身で米国の一般家庭に長期のホームステイをしたのだ。他人とどう接すればいいかよくわかっていない無知の若者が、序章をすっとばして本論に行ってしまった。

若かったし、ストレスより好奇心が勝っていたから適応できたが、私の内側や外側ではありとあらゆる摩擦や葛藤が起き、価値観が揺らぎ、変化した。自分なりにいろんなことにチャレンジもした。深いカルチャーショックも経験したし、差別も受けた。友だちもなかなかつくれなかったし、いろんな考え方の違いに打ちのめされた。孤独で、泣いたこともしょっちゅうだった。でもまあいつも笑っていたように思う。

その後多くの旅をしたが、体験の深さと強度において、けっきょくそのときに勝るものがない。

履歴書には「○○ハイスクール留学、卒業」というアカデミックな果実だけが書かれることになるのだが、私にとってはその陰にある「生活体験」のほうが、何千倍も大切だ。

だから、幸か不幸か、いまだ旅に行ってもどこか物足りない。観光地に行って、歴史的に重要なモニュメントを見て、地元の料理を食べ、店員やタクシーの運転手と話をしても、すべてが表面的に感じてしまう。

旅は大好きだが、ホテルの星の数がいくつかとか、逆に1泊何百バーツに抑えたとか、あの名店に行って食べたかとかマッサージしたとか、そういうことは実はどうでもいいんだと思っている自分がいるのがわかる。それだけ最初の「旅」が強烈かつ本質的だったのだ。

それでも、自分の足で歩いて旅したほうが、日本にいてPCやスマートフォンの画面で「情報」を見ているより、何倍も刺激的だし、学びが多い。知ったつもりになっている街、文化、人々の価値観、料理の味、オーケストラの音は、体験してみて初めてわかる。

寺山修司さんはかつて、「書を捨てよ、町に出よう」と言った。

このブログの読者にどれほど10代、20代の若者がいるか知らないが、若いあなたに「スマホを捨てよ、旅に出よう」という言葉を贈るのはどうだろう。本質的な「体験」は、情報からは得られない。人は自らの体験からしか学べないのだから。

もちろん、「旅」とは、飛行機に乗って海外に行くことだけではない。新しいなにかを身体を使って体験に行き、葛藤を克服することは、すべて広義の旅だと思う。

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2013年1月19日 (土)

一線

日本写真学院でやっているゼミの最終日だった。2月に3人ずつ3週間に渡って行うグループ展に向けて、全員の完成形に近い作品を見た。

グループ展はまだ始まってもいないのだが、率直な感想は、

「こんなにうれしいことはない。」

長い人で1年以上にわたり、いろんな課題をクリアし、いろんな人の写真を視て、意見交換をし、丁寧にプリントをつくることを体得し、少しずつ少しずつ準備をしてきた。先週は3名、今週は6名の作品を見たが、全員が「ある一線」を越えたことを実感した。

その「一線」とは、非常に感覚的なので言葉ではうまく言えないが、写真の説得力であり、プリントのクオリティであり、本人の自覚である。9名全員が、それを誇りに、自信を持ってグループ展に臨んでほしい。

もちろん、作品に対する感じ方は人それぞれで、なかには批判的な目で見られるお客さまもいるだろう。だが、私にとってはすべての作品が、自分の作品と同じかそれ以上に大切で、美しい。

あまりにうれしくて、帰り道はずっとにやにやしていた。今、一人で祝杯をあげている。9名に感謝。

第1グループ https://www.facebook.com/events/327859277326655/

第2グループ https://www.facebook.com/events/135919756566643/

第3グループ https://www.facebook.com/events/104989973011574/

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2012年6月25日 (月)

変化と段階

写真ワークショップの第3期が終わった。自分で勝手に設定しておいて言うのもなんだが、3ヶ月は短い。個性が出てきたところで終わってしまう。でも、ここから先は、グループでやれることにも限界が出てくる。どんどん個々の作品に入っていくからだ。

3ヶ月のワークショップのなかでは、その写真を大きく変化させる人もいれば、そうでもない人もいる。

変化の大きい参加者は、写真を本格的に始めてまだそれほど時間が経っていなくて、しかも写真にたいして好奇心が強い人が多い。その変化は本当に劇的で、傍で見ていて感動さえする。

一方、すでに自分自身の「文体」を持って参加してくる人は、あまり変化しない(私も無理に変えるつもりがない)が、写真にたいする見方を深め、文体を洗練させ、個性に確信を持ってもらうお手伝いができたらと思ってやっている。

変化の大小は、さほど問題ではない。それぞれの段階があるからだ。問題になるのは、(その段階に応じて)どれだけ自分自身がつくりたい写真をつくれるようになっているか、である。

第3期の最終回には、ゲストに尊敬する先輩である小原孝博さんをお呼びして、講評していただいた。小原さんは「すごい」「やられた」「負けた」を連発していた。もちろん、客観的にみて小原さんが負けているわけはないのだが、そう思わせるだけのインパクト、個性のある作品があったということだ。

私自身も、毎回参加者の作品を見て、「これはぜったいに真似できない」と感じることが多々ある。それこそが個性であり才能である。そしてそれを見て私も、もっともっと自分の技を磨いていこうと思うのである。

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2012年5月17日 (木)

シェア

今回は写真やものづくりの話からちょっと離れる。

自称「日本を代表するイクメンフォトグラファー」である私は、子どものための(子どもとの)時間を、世の一般的なサラリーマン父親より割いていると思う。

様々な言語を話す人が暮らす地域に住んでいるので、近所の公園などで遊んでいると、よく日本語以外の言葉が飛び交っている。

他の言語だとどうなのかは分からないが、少なくとも英語を話す親やシッターたち(母語が英語でなくても教育目的で英語を話す人も多いようだ)が子どもに向かって話している内容に耳を向けると、よく「シェア(share)」という言葉を使う。

近年になって日本でもレストランなどで、料理を皆で「シェアする」と言ったりする、その「分け合う」という意味の「シェア」である

その英語を話す親やシッターたちは、子どもたちがおもちゃの取り合いになったりすると「シェアしなさい」と言う。何かを食べるときも、兄弟で「シェアしなさい」。イスが足りないとき、一つのイスを友だちと「シェアしなさい」。

他方、日本の教育ビデオなどを息子と観ていると、「みんなでなかよく」「みんないっしょに」「はんぶんこ」などの言葉が多く出てくる。最近は以前ほど聞かないが、「がまんしなさい」という言葉もよく使う。

これらは、「シェア」と似ているようで、ちょっと違う。シェアすることの中心にあるのは、あくまで「限られたものを複数の人と分け合う」ということであって、そのためには必ずしも仲良しでなくてもいいし、分け前が全員同じ量とも限らないし、がまんはしてもあきらめる必用はとくにない。

昨日、大学時代の恩師の葬儀に参列した。スペイン人のM先生には、インドとフィリピンのスラムやストリートに住む子どもたちに教育の機会を与えるという学生NGOでお世話になった。

その、先生が発起人になってつくったNGOの基本理念が「シェア」である。

日本に住み、教育を含め、ありとあらゆるものをあたりまえのものとして享受している我々が、アジアのいわゆる最貧層の子どもたちとシェアできるものは、たくさんある。よくいうギブアンドテイクではなく、シェア。

敬虔なカトリックの大家族で育った先生は、シェアするということがどういうことかを母親から学んだという。

歳をとるごとに、先生の教えが、じわりじわりと心の中で現実味を帯びてくる。

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2012年3月29日 (木)

意識を向ける

写真ワークショップを昨年秋からやっている。修了しても何か資格が与えられるわけでもない、独自の写真観にもとづいて組まれた3ヶ月で6回のプログラム(あるいは短期で2日間集中というのも行った)を比較的少人数でやっている。

毎回、次回までの宿題を出すのだが、参加者は皆必死にやってきてくれる。その結果、写真に何らかの変化が現れる。ある人はなだらかに(あるいは螺旋状に)、またある人は急激にその写真を変化させる。

もうかなりの写真が撮れている人の安定した作品は他の参加者の手本や刺激になるし、彼らもいわゆる初心者にアドバイスすることで何かを学ぶ。そのように参加者どうしが影響しあえるのが、グループワークの最大のメリット。

私のワークショップは必ずしも何かの技術を学ぶものではない。その中身を要約すれば、「意識していなかったものに意識を向ける」、それに尽きるであろう。

多くの人は、何かに意識を向けるだけで、もしそこに欲しいものを見つければ、もっと求めようとするし、仮に問題に氣づけば、自分でそれを解決するように動く。

不思議なことに、プログラムを信じてコミットしてくれる参加者は、「プリントの密度」が回を重ねるごとに少しずつ濃くなっていく。テーマ性が濃くなるだけでなく、同じプリンターを使っているはずなのに、プリントそのものの質が変化していくプロセスは、傍で見ていて感動さえする。

プログラムを終えた参加者は、その後3ヶ月の作品制作期間与えられ、「修了作品」をウェブで公開することになっている。

昨年末に終えた第1期の参加者の作品が、少しずつ私の元に届いているが、どれも力作だ。それらは4月に公開予定(現在、4月から始まる第3期参加者募集中)。

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