写真に写るもの

2014年10月 2日 (木)

光の神秘

デジタルカメラで写真を撮っていると、ときどきそれが「複写機」であるように錯覚する。もちろんその要素はアナログカメラにも多分にあるのだが、自分が日頃感じている光の存在感とは別の次元で光が数値化され、情報として処理されているような印象を持つとでも言ったらいいだろうか。デジタルカメラの高度な技術と進化の早さに敬意と感動を覚えつつも、いまだ私の写真の中心にはフィルムがある。担当する写真ゼミの受講生にその理由は何かと問われ考えるうちに、エピソードをいくつか思い出した。

作曲の修業時代、鎌倉の極楽寺という土地に8年半住んだ(その頃はまだ写真をやっていない)。古い木造アパートはやや高台にあり、夜にはカーテンの隙間から月の光が畳の上に差し込んだ。

満月の晩にはよく、窓際に布団を敷いてカーテンを全開にし、その青白く煌煌とした光に包まれながら寝た。反射光ながら心の奥底にまで差し込んでくる力強い光。その存在感と神秘。

幾度となく、かつてこの地に住んだ人たちはどんな心持ちで月を眺めたのだろうと考えた。夜中の照明が貴重な時代、この光は人々にとって、どれほど神々しいものだったのだろうと。

また先日、実家のある新潟で、6歳の息子と満月の光の中を歩いた。息子は初めて目にする月光だけに青白く照らされた夜の風景に驚いていたようだ。

ちょうど息子と同い年の頃、私は天体観測に取り憑かれた。低い身長でがんばって望遠鏡を覗き込むと、そこには何千何万年もの昔に発せられた光たちが見えた。

フィルムで写真を撮ることは私にとって、光の存在感と神秘を正面から受け止めることなのかもしれない。彼方で発せられ、この地に届き、生命を照らし育む光。それが、かたちをもつ物質、すなわち粒子としてフィルムに残される。

Joy24

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2013年4月12日 (金)

見る側の感情を喚起する写真

以前の記事で、写真を「自己表現」とすることに違和感がある、表現しよう表現しようとするのではなく、徹底した描写の先に人は感情を読み取るのでは、というような内容のことを書いた(「引用」)。

このことを説明するとき、担当する写真ゼミではよく、スデクを例に挙げる(Josef Sudek)。

スデクは、「プラハの詩人」と呼ばれるほど、その作品をして見る者に多くの感情を喚起せしめるが、私には彼の作品が、何かの感情を伝えようとしてつくったものには見えない。おそらく(本人に確認することはできないが)、その徹底した描写に、我々が勝手に感情を投影しているだけではないのかと思っている。

ところが先日、写真ゼミの受講生が興味深い質問をしてきた。「では、スデクとベッヒャー夫妻の違いは何なのでしょう? ベッヒャー夫妻も描写に徹していると思うのですが、私はそこから感情を読み取れません。」

私は「いい質問ですね」と言った後即答できず、宿題にさせてもらった。

その後考えた末、一つの仮説に行き着いた。それは、

「両者とも、描写に徹し、見る側に感情を伝えよう伝えようとしていない点では共通するが、スデクがその場で多くの感情を抱きながら撮影していたのに対し、ベッヒャー夫妻は、さほど感情を抱かずに撮影しているのではないか」

というものだ。

ティルマンスが言うように、写真には作者の心が写る(「写真に写るもの(1)」)。多くを感じながら撮った写真と、そうでないものには、差が出るだろう。

売ろう売ろうとしている広告写真に我々がさほど魅力を感じないのと同じ理由で、感情を伝えよう伝えようとしている写真からは、「想いを伝えよう伝えようとしている作者」のほうが際立って見えてしまって、見る側は逆説的に冷めてしまいやすいのではないか。

スデクの写真から私は、そのような作者の姿は読み取れないが、多くの感情を喚起させられるのである。

Aria008

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2012年8月11日 (土)

花の写真と花のある写真〜写真に写るもの(2)

たとえば花をモチーフとした写真には、「花の写真」と「花のある写真」の2種類があって、その二つの間には、微妙だが決定的な溝がある。

「花の写真」が、花そのものの姿をリアルに写し取ったものだとすれば、「花のある写真」は、撮る者の視座を示した図である。

現代では、携帯電話のカメラで撮られる写真の大半が前者であろうし、パリフォトなどに並ぶコレクターが好む写真の多くが後者かもしれない。

たとえば、いわゆるネイチャーフォトと呼ばれる写真を撮る人は、前者を徹底的にやることを好み、いわゆるコンテンポラリー写真家は後者を追求する。よく両者が互いに「そんなの写真じゃない」と批判しあう姿を目にするが、それも当然だ。なぜなら、そもそも写真に求めるものが違うからである。

それゆえ、両者をごちゃごちゃに学んだり論じたりすると、混乱を招くおそれがあると思う。しかし実際には、ほとんど区別されていない。

今日活躍中の写真家で、後者のように見えて前者、あるいはその逆に、前者のように見えて後者、という人が少なからずいる。たとえば石川直樹さんは、視座よりも現実の描写をしている(と私は思う)し、セバスチャン・サルガドは、ジャーナリストとして現実の描写をしてはいるが、彼の写真に見えるのは、それ以上に彼の視座だ。

サルガドが撮っているのは「難民の写真」というより「難民のいる写真」であり、フレームの中に収まっているのは、難民という被写体をモチーフとした、彼の視座である。

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2012年6月 6日 (水)

写真に写るもの(1)

ウォルフガング・ティルマンス(写真家 1968〜)が、雑誌「BRUTUS」の2004/8/15号で、以下のように語っている。

「写真は技術的なだけではなく、心理的なメディアだ。(中略)もしも、誰かが僕のような写真を撮りたいとするとそこには、僕のような写真を撮りたいという『欲望』が見えてくる。それが、その写真の語っているところで、その写真はまったく僕の写真のようではない。」

要約すれば、「ティルマンスのように撮ろう」として撮ると、ティルマンスのように撮れるわけではなく、「ティルマンスのように撮ろうとしている私」が、写真には写るというのである。

写真を撮り始める動機は人それぞれであろうが、はじめは何を撮っても楽しかったのが、あるときから「上手に撮ろう」とか「人に褒めてほしい」と思うようになり、次第に「何を撮っていいか分からない」となる人が、けっこうな割合でいる。

これは「これを撮りたい(What)」の動機よりも、「こう撮りたい(How)」が上回ってしまう現象だ。

それでもまだ「こう撮りたい」と思える人はさいわいで、なかには本当に何を撮っていいか分からなくなる人がいる。

そういう人は、写真を撮る動機をもう一度見つめ直すべきだ。なぜなら、そういう状態のとき、たいていの人は「人の目にどう映るか」のために写真をやっているからだ。

これを撮りたい、こう撮りたいという感情以上に、「こんなにステキなものを撮っている私ってステキと他人に思ってほしい」のではないだろうか。そういうとき撮る写真には、残念ながらステキなものは写ってなくて、「人にステキだと思ってほしい私」が写っているのである。

写真を始めたばかりの人の写真が「強い」のは、本当に撮りたいものを楽しんで撮っていて、しかも他人にそれを見せることに躊躇がないからだ。幼い子が親に「みてみて!」と言うのと同じだ。しかし子どもはそのうち、親以外の者が、褒めてくれない、興味を示してくれない、「何それ」と冷たくあしらう、ということを経験するうちに、「みてみて!」と言うのをやめていく。

私は、作家になる素質の第一は、技術とか運以上に、いつまでもその「みてみて!」を続けられることなのではないかと密かに思っている。

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