創造性

2017年7月27日 (木)

料理がネイティヴ言語のシェフ

よく行くレストランのシェフが、メニューにないものもリクエストすると、その通りの料理を出してくれる。どんな食材でも、どんなリクエストにも応えてくれ、しかも一定のクオリティがあるので、もしやと思い訊いてみると、やはり就学前から料理をしていた。料理を仕事にするお母さんのまねをして、幼い頃から自分で料理していたのだという。

彼にとって、料理(味覚)は「言語」なのだ。

私たちが言葉を聞いて、覚え、考え、それをしゃべるように、彼は料理を食べて、覚え、それをつくっていた。私はそれを「味覚の言語をしゃべる」と考える。

味覚で「考える」ことができるから、リクエストしたとき、我々が想像できないレベルでそれを具現化できる。ふつう「考える」というと言葉で考えることを指すが、抽象的なことを考えるように、彼は「味覚で考える」のだと思う。

たとえば、幼い頃から音楽を多く聴き、覚え、演奏してきた人たちは、「音楽が言語」であり、「音楽で考える」ことができる。

視覚で考える人もいる。幼い頃から運動をたくさんやってきた人は身体で考えるんだろう。

もちろん、大人になってから新しい「言語」を身に付けることはできる。しかし、幼少期に身につけた言語と違い、「ネイティヴ」にはならない。

例が適切かわからないが、アグネス・チャンやデーブ・スペクターは、これだけ永い間日本にいて、日本語ペラペラなのに、いまだどこか不自然さがある、そういうことだ。

上述のシェフの料理には一定のクオリティがあると書いたが、それは「味が自然」と言い換えてもいい。ネイティヴがしゃべる言葉のごとく、どんな料理にも違和感がないのだ。

私はいろんな音楽(西洋音楽)の訓練をしてきたが、どうやっても拭いきれない不自然さがあることに以前から氣づいていた。それはたぶん、私が西洋音楽を大人になってから始めた、「ネイティヴ」じゃないからなのだ。

しかし、同じ音楽でも、生まれ育った町で幼い頃から慣れ親しみ、しかもある年齢から自分でも弾くようになった伝統音楽には、同じような不自然さを感じない。

人間には無限の可能性があるとは思うが、一度幼少期に(不必要と脳が判断して)手放したものは、回収できないのである。

ただしこれは、何かをするのにネイティヴじゃなくてはいけないという話ではないので誤解なきよう。感動する話は、ネイティヴじゃなくてもできるし、私はそれをたくさん聞いてきた。

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2017年5月18日 (木)

幼少年期にのめり込んだことを今に活かす

写真をやっているときのわくわくする心の動きが、何かに似ているなあと思っていたら、小学生のときにやっていた釣りじゃないかと思い立ちました。そのころはもっぱら川や池などで釣っていて、釣り大会に出たこともありました。

釣りは、目的の釣りたい魚がいて、何日か前から準備して、当日は朝早く起きてポイントに行って計画通りにスタートするわけですが、天候や水のようすから、現場でポイントや仕掛けに若干の変更を加えていきます。

その結果、釣れるときもあればそうでないときもあります。釣れればもちろんうれしいですが、そうでなくても、その一連の行為がたのしいのです。

写真家には大きく分けて「シューティングタイプ」と「フィッシングタイプ」の2種類がいると言われていて、私は間違いなく後者。準備して、待って、タイミングが来たときに合わせる、という撮り方。前者は、途中までは似ていますが、最後のところで獲物のタイミングではなく自分のタイミングでズキュンと撃ち抜くわけです。

道具がよくなれば上手になるような幻想を抱かせてくれるところも釣りと写真の似ている点です。

それから、高校時代、アメリカに住んでいた時分に、たくさん鉛筆画を描きました。田舎だったので車がなくては放課後は何もできなかったので、毎日画を描いているか走っているか、みたいな感じでした。

もっぱら人物を描いていました。友人知人から描いてほしいと依頼されることもあれば、こちらから勝手に描くこともありました。

振り返ると、その鉛筆画は、私が今モノクロフィルムで撮って印画紙に焼き付けていることと本質的に変わらないと思います。

才能というのは人それぞれで、どのような分野でも、第一線で活躍する人はたいがい、かたちはちがえど、幼少年期にたくさんやったこと、たくさん学んだことを活かしています。

例えば、少年期のプリンスはまったくモテずギターばっかり弾いていたとか、村上春樹さんは本をとにかくたくさん読み音楽をたくさん聴いていたとか、そういう話をよく聞きます。

私が彼らに匹敵するとかそういう話でなく、やはり昔たくさんやっていたことを活かすことが活躍できる方法なんだなとあらためて実感しているという話です。

だれにでも1つや2つ、幼少年期にのめり込んだことがあると思うのです。大人になってから新しいスキルを学ぶのもいいのですが、そこに、幼少年期にうんざりするほどやったことを活かすという意識を加えるだけで、ずいぶん結果がちがうはずです。

今月末に始まる写真講座「光の時」では、各自が幼少年期に経験したこと、獲得したことにフォーカスして、それを写真に反映させるということもやってみたいと思います。まだ空席があるようなので、興味のある方はぜひ連絡を取ってみてください。

写真講座「光の時」詳細は→こちら

Seki

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2017年2月 7日 (火)

創造に必要なスキル

小学2年生の息子の周囲では、中学受験の話題が出始めている(早い人はもっと前から考えているんだろうけど)。

受験に必要なことをあらためて見てみると、ほぼ100%、あらかじめ用意されている正解を求めるテスト。

だが、世の中にあるいろいろな仕事にあてはめて考えてみると、正解を求めることが必要な仕事もあるが、それはごく一部だ。

飲食系の仕事だと、体力はもちろん、同時進行でいかに効率よく複数のタスクをこなせるか、みたいなことも出てくる。

客商売なら、いかに顧客と関係を築けるかという能力も問われる。

デスクワークでは、仕事に優先順位をつけたり、資料をつくったり、取引先ときもちよく商談ができるスキルが必要だ。

大学院に行って研究するにしたって、テーマを自分で見つけてリサーチする能力が問われる。

農業や漁業では、自然の流れを直観的にわからなくてはならない。

名医と呼ばれる人は、病名と処方を特定しているだけではない。

これらすべて、受験に必要とされる能力とまったくとまでは言わないものの、ほとんど関係ない。

同じように、創造的な仕事も、正解を求めるスキルからは導き出されない。なぜなら、それは、新しい正解をつくる仕事であって、既にある正解を求める仕事でないからだ。正解を求める仕事はニーズに応える仕事。創造性にニーズはない。

例えばビートルズの音楽、ピカソのキュビズム、ジョブズのiPhoneは、ニーズに応えたわけではない。誰も「こんな電話がほしい」なんて思っていなかった。だが出たとたんに「こんなのがほしかったんだ!」となった(もちろん「創造的に」ニーズに応えるということも必要だが)。

創造性は、解を求めることではなく、仮説を立てることだと思う。誰からも今は必要とされていないけど、こんなのをつくったらおもしろいかもしれないとか、これとこれを組み合わせると新しいものがつくれるかもしれないとか、そういう仮説を立てて実際にかたちにしていくことなんだと思う。

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Pray 〜世界に魅せられた者たちのライヴ6
2/14 南青山マンダラ
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2017年1月17日 (火)

作品の旬

これだけ世界にアート作品があり、名作と呼ばれるものが鑑賞しきれないほどあるのに、それでもなぜ新しい作品をつくりつづけるのか。

それは(作者がつくりたいから、という理由のほかに)、生き物に寿命があるように、作品にも旬だったり賞味期限だったりがあるからだ。

ビートルズの登場をリアルタイムで体験した人たちが、それがどれほど衝撃的だったか、彼らの音楽がどれほど素晴らしいか語るのをよく聞く。私もビートルズは好きだし、音楽は素晴らしいと思う。しかし、私(たちの世代)はビートルズを、残念ながらリアルタイム世代と同じようなショックと感動をもって感じることはできない。なぜなら、彼らの体験はビートルズの「旬」であり、我々の体験はそれが過ぎ去ってからのものだからだ。

例えばリスト。いま聴けばリストのピアノ曲は端正で美しい、しかも高度な技術を要する印象の曲に聞こえるが、「旬」の頃は、サロンでご婦人方がキャーキャー熱中して失神するくらいだったとか。今でいうこんな感じだったのだろうか。

作品の旬、流行りの理由を論理的に説明することはむずかしい。新しいということをのぞけば、その作品にそのとき特別なエネルギーがあったとしか説明できない。エネルギーの強さというのは、分析では説明できない要素である。

旬を過ぎた作品には、旬の頃の興奮を感じなくなる。逆言えば、食べ物と同じように、旬のときにしか味わえない特別な感動もある。

だからこそ作家は、つぎつぎに新しい作品を生み出すのである。

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2017年1月16日 (月)

創作とグリット

「作品」と一口に言っても、一筆書きから複雑、大規模なものまである。どちらのほうが優れているというわけでなく、それぞれの魅力がある。

しかし、時間のかかるほうの作品は、挫折せずに最後までモチベーションを持続させてつくりつづけなくては完成しない。

そのために必要なものが、前回触れた「グリット」。グリットとは、日本語にすると「やりつづける力」という感じだろうか。

例えば前々回引用したチャイコフスキー。インスピレーションがあってもなくても日々懸命に働きつづけなくてはいけないと言っているのは、クラシック音楽の作曲の宿命。曲の発想についてはインスピレーションに依るところが大きい作曲も、殊オーケストレーション、譜面書きとなると、かなりの部分が機械的な作業となる。

チャイコフスキーくらいの偉大な作曲家になるとどれくらい弟子に任せていたのか分からないが、オーケストレーションや譜面書きは、非常に長い時間、地味にコツコツと書いていく作業であるから、その間には派手なインスピレーションはむしろいらない。

同じく前々回引用した村上春樹さんは、「短編や中編で実験したことを長編に活かす」など、書き手にとっての短編小説と長編小説のちがいをいろいろなところで語っている。同じように、浅田次郎さんもここで以下のように語ってる。

「長編と短編では作家が使う筋肉が違います。マラソンランナーと短距離走者の体つきが違うように、違う職業と言ってもいいくらいです。僕は両方好きで書いています。それは、双方のトレーニング効果があるからです。短編を書き続けているから、引き締まった筋肉で長編を構成していくことができるんです。」

作曲にせよ文筆にせよ、それなりの規模の作品を完成させるには「グリット」が必要となる。

その「グリット」、日本語で「やりつづける力」などと言うと、どうしても根性、努力、みたいなニュアンスを伴うが、ここにある茂木健一郎さんの言葉が参考になるだろう。

「グリットには、『やる気』はあってもいいが、むしろなくても大丈夫、と考えていた方が、実践することができる。むしろ、『やる気』がないから私はできないんだ、というのは、やらないこと、続けないことの言い訳にしかならないことが多い。

『やる気』があろうがなかろうが、とにかく続ける、という粘り強い態度が、『グリット』にはむしろ向いている。毎日、燃える闘魂で10年も20年も続けるわけには行かない。むしろ、淡々と、やるべきことをやることで、遠くに行くことができるのである。

『グリット』は、むしろ、それを実践している人にとっては、呼吸をしているのと同じで、だからこそ、フラットに、ずっと続けることができる。一方、いわゆる『意識が高い』ことを自分に強要すると、かえってそれが邪魔になって、息切れして、続けることができなくなるのである。」

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2017年1月15日 (日)

持続するモチベーション

インスピレーションについてのつづき。

では、写真家はどのようにインスピレーションを得るのだろうか。私が関わってきたあらゆるアートのうち、写真ほど簡単に作者(私)がインスピレーションを得られる媒体を知らない。どうすればいいのか。旅に行けばいいのである。

インスピレーションというものが、「これをつくりたい!」と作者を一種の興奮状態にさせるものだと仮にすると、瞬間の画像を取り込むということが写真家の仕事であれば、「これを取り込みたい!」と思わせてくれるものが写真家にとってのインスピレーション(俗に「写欲」と呼ばれているもの)である。

旅に行くと、見るものすべてが新鮮だ。脳は新しいものを見るとそれを記憶しようとする。すると脳は活性化し、一種の興奮状態になる。撮り手はその興奮に忠実にシャッターを押し続ける。

ところが、それだけでは「作品」としては成立しない。選び、現像し、プリント、編集と作業は続く。展覧会にまで発展する場合もある。そこには持続するモチベーションが必要だ。

ところで、前回紹介した3人のアーティストは、ジャンルは違うが(作曲、小説、絵画)、作品は共通して「緻密」。仕上げるのに膨大な時間とエネルギーを必要とする。

作品を構想をすることと、それを実際に完成度高く仕上げることとの間には、天と地くらいの違いがある。壮大な作品の場合はとくにそうだ。では、彼らが継続して作品と向かい合い、フィニッシュまでもっていける理由は何か。

それが、いま注目されている「グリット(grit)」という能力である。この3名に共通しているのは、彼らがグリットを持っているということ。グリットについては次回。

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2017年1月14日 (土)

アーティストとインスピレーション

創造的なアーティストは、どのようにインスピレーションを得ているのだろうか。

いろいろなアーティストがいろいろなことを言っているが、どうやらインスピレーションを得るための黄金法則はないようだ。それでも多くの人が共通して、考えて考えて考え続けて、ふと力が抜けたりあきらめた頃にひらめく、というようなことは言っている。

しかし、なかにはインスピレーションに頼らずに創作しているアーティストも多くいる。

チャイコフスキーは「自己を大切にするアーティストならば、いまは気が向かないなんて口実にあぐらをかいてはいけない。(中略)とくにインスピレーションがないときでも私は、毎日懸命に働いている。もしやる気が出ないことを正当化してしまったら、おそらく私は永い間何もしなくなってしまうだろう」と述べている。

村上春樹さんは「とにかく自分をペースに乗せてしまうこと。自分を習慣の動物にしてしまうこと。一日十枚書くと決めたら、何があろうと十枚書く。(中略)今僕がそう言うと『偉いですね』と感心してくれる人がけっこういますけど、昔はそんなこと言ったら真剣にばかにされましたよね。そんなの芸術家じゃないって。芸術家というのは気が向いたら書いて、気が向かなきゃ書かない。そんなタイムレコーダーを押すような書き方ではろくなものはできない。原稿なんて締め切りがきてから書くものだとか、しょっちゅう言われてました。 でも僕はそうは思わなかった。」と述べている。

チャック・クローズは「インスピレーションはアマチュアのためのもの。そうじゃない我々は、つべこべ言わず仕事をするだけ。」と言っている。

私自身を振り返ってみても、締め切りも制限もなくいろいろ構想しているときは、あまりろくなものはつくれない。というか、つくるまでに至らないことが多い。満足度が高いのは、締め切りとフォーマットが明確にあって、それに向けてつくるとき。震えるようなインスピレーションは確かに必要ではあるが、待っていてもなにも事は進まないのである。

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2017年1月13日 (金)

編集と制約による創造

創造性は、アーティストのためだけのものではない。あらゆる仕事、立場の人の役に立つ。

さて、創造とは、簡単に言えば、ないものをつくること。だが、必ずしも、皆があっというような発明するとか誰も見たことのない作風の絵を描くといった、0(無)を1(有)にすることだとは限らない。

むしろ、「1+a=2b」のような、すでにある「1」と「a」を組み合わせると、「1a」でなくて「2b」になる、みたいなことのほうが多いと思う。「1」と「a」は、違うカテゴリーに属しているが、組み合わせると「2bになった!」となる。

例えば、アップルコンピュータの電源ケーブル。磁石で本体にくっついていて、引っ張ると離れる。これはスティーヴ・ジョブズが、ポットの電源ケーブルに着想を得たもの。ジョブズはまったく新しいものをつくりだしたのではなく、既にあるものどうしを組み合わせたのである。

演者であり、かつ劇作家としても数々の能を書いた世阿弥は「風姿花伝」で次のようなことを言っている。

「学問や才能に必ずしも恵まれていなくても、巧みに編集できれば良い能は書ける。」(水野聡・訳)

優れた能を書くのは、秀才や天才でなくても、編集能力さえあればできる、ということだ。「風姿花伝」ではその後、どのようなものを引用し、どのような言葉を使ったらいいかといった具体的なアドバイスが続く。

スティーヴ・ジョブズは、創造性とは「点と点をつなぐこと」と言っていた。それは世阿弥の言う「編集能力」そのものではないか。

また、自由に好きなようにつくっていいという無制約な状況は、創造に必ずしもいいとは限らない。むしろ、制約のあることがプラスに働くことがある。

世阿弥、シェイクスピアがそうだった。2人が活躍したのは大衆メディアのない時代。共に、形式、舞台装置、時間、劇場、情報といった、制約のなかにあって広く大衆にアピールする作品をつくっていた。制約があったからこそ、いきいきした創作ができていたように思う。

有名なソニーのウォークマンも、サイズ、価格を先に決めて、あのようなデビューになった。

これら例のように創造は、既にあるものをどう結びつけ、活用、工夫するかということだったりするのである。

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2017年1月12日 (木)

ことば以外の言語

先日、絶対音感についての動画を観た。私のような絶対音感のない人間からすると、それは驚きの能力であり、自分にはないことに劣等感を抱いたりもする。だが、ビデオの中でも断言されている通り、絶対音感は大人になってからでは身に付けることができない。

絶対音感はおそらくは、生まれつき誰もが持っている能力だ。

色で考えるとわかる。

可視領域にある「特定の光の周波数」を我々は「色の名前」で呼ぶことができる。広義の「絶対色感」である。それは周波数と呼び名を一致させる訓練を幼い頃から繰り返しやってきたからふつうにできる。なかには微妙な差異を言い当てたり、特色の混ぜ合わせの分量までわかる狭義の絶対色感を持っている人もいる。

対して、可聴領域にある「特定の音の周波数」を「音の名前(音階)」で呼ぶことができる能力が絶対音感であるが、ほとんどの人がその訓練をしないので、脳はその能力を不必要なものと判断し、人生のわりと早い段階で捨ててしまう。訓練をした子どもだけがその能力を「残す」。

加えて、幼い頃からクラシック、ジャズなど、情報が高度な音楽を聴きつづけ、そして楽器によって演奏している人にとって、音楽は「言語」になるという。

耳で聴き、楽譜という記号を読み、身体と楽器を使って人に伝えるように演奏するということには、人間の持つ様々な能力や感覚を必要とする。論理、記憶、色彩、意味、感覚、物語、感情、身体、精神。それらを包括的に使い、他者とも関わる。

絶対音感はもしかすると、音楽をそのように「言語」として身につけていない人には、それだけあってもかえって生活のじゃまになるかもしれない。

脳のシナプスは、6歳くらいでピークになると言われている。生まれてからそれまでの間に、昔よく見たシンセサイザーのように、脳内のあちらこちらで配線が行われる。その後の人生で必要だろうと思われる「言語」の基礎が習得されるのは、この時期である。

この時期に、情報が高度な音楽を自分の言語にすることができた人は、大きくなってからもその言語を使って、考えたり、表現したり、他人と関わることが自然にできるようになる。彼らはつまり、「音楽ネイティヴ」なのだ。もちろん、ことばと同じで、どのような環境でどんな音楽をたくさん聴いたかで、身に付ける語彙や文法が変わる。

このように考えると、私だけでなく、そういう音楽教育を受けなかったことを悲観したくなる読者の方もいるかもしれない。しかし、創造性と個性の観点から見ると、その必要はまったくない。

なぜなら、0歳から6歳くらいまでの間に、音楽でなくとも、もしなにかをたくさんやっていたとすれば、それがあなたの脳をつくり、「言語」になっている可能性が高いからだ。運動をたくさんやっていた人なら運動が、友だちとおしゃべりをたくさんした人や読書をした人ならことばそのものが「言語」になっているはずだ。

あなたはその時期、何に熱中してすごしていただろうか。

私自身を振り返ってみると、その時期はひとりで「考えている」時間、「想像している」時間がすごく長かった。

それに氣づいたとき、今でも私自身が、考えたり想像したりすることに、自由さと流暢さ、そしてある種のアイデンティティを感じられることに納得した。

しかし、想像力を測るものさしは私の知る限りない。IQはある条件のもとでのテストだから少しちがう。運動能力のように測れないし、ことばや楽器のようにそのまましゃべったり弾いたりすることもできない。だから、それを世界とシェアするためには、なにかしらの他の言語に翻訳しなければならない。

もっとも、どんなに言語が流暢でも、中身がなければ話はつまらないということは、言うまでもない。

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2017年1月10日 (火)

こころのクセとレイヤー

昨日、横浜元町で開催された「ヨーガ&禅 -心を整えるマインドフルセッション-」(川野泰周先生・今村翠先生)というワークショップに参加し、多くの新鮮な氣づきを得た。なかでも「こころのクセ」「意識のレイヤー」には、はっとした。

参加のきっかけは川野・今村両先生に昨年知り合い、感銘を受けたから。

川野先生は禅寺の住職でありながら精神科医であるという方。アメリカから逆輸入のようなかたちで注目されている「マインドフルネス」の、日本の第一人者である。

今村先生はインドでヨガと出逢い、本場のヴァイブを我々に親しみやすいかたちで伝えている方。

ワークショップはまず川野先生のマインドフルネスについてのレクチャーから始まった。現在アメリカを中心に「マインドフルネス」の実践が、個人にとどまらず、医療、ビジネスなどで一定の効果を上げていることは、もっと知られていいだろう。

その後今村先生のヨガに。私は10年以上ぶりのヨガ。世の中でヨガブームが起きる直前くらいに六本木のスポーツクラブで、アメリカ人の先生から習っていた。彼女もやはりインドで学んだ人で、ヨガを習いたいというより、彼女から感じるエネルギーが面白いからその場にいたかったという感じで通った。だから、今村先生のヨガも私にはすごく入りやすかった。

動き始めるとまず、10年以上前と身体の動きが違うことに驚いた。もっと動けなくなっているかと思っていたら逆で、当時より身体は柔らかくなっていた。ヨガのようなことはその間まったくしていなかったが、日常的に身体運動はしているし、メディテーションも毎日やっている。そういうことが影響したのだろうか。

今村先生のヨガで氣づいたのは、私のなかにある「こころのクセ」。

それは、やりながら「このポーズは正しいのだろうか」と考えたり、先生が回ってきているのが分かると「少し緊張する」などのこと。つまり「自分は正しくパフォームしているか不安になる」というクセだ。そのクセは私の心身を硬直させる。今村先生のヨガでは、正しいフォームでやるかどうかにはまったくフォーカスされていなかったのにもかかわらず、である。

途中からそれに氣づいて、正しさよりも「心地よさ」や「エレガントさ」を優先するようにしてみた。だから後半はすごく氣持ちよかった。

しかし、このクセはどこで身につけたのだろう。心当たりがあるとすれば、永年やっていたスポーツだろうか。いや、ちがうかもしれない。

その後、川野先生主導による禅に移行した。先生は我々に抵抗が出ないようにするためか、メディテーションという言葉を使わず「座禅」とそれを呼んだが、中身はメディテーションそのものだった(英語では一緒なんだけどね)。座って呼吸に意識を向け、雑念が湧いてきたらそれを否定せず、また呼吸に意識を戻す。

そして、座禅が終わろうとしているとき、ひとつの氣づきがあった。意識の中で、音楽と言葉が別な階層にあるということがはっきりとわかったのだ。

禅の前後に、音楽と、両先生による美しいマントラと声明があった。また、雑念が言葉というかたちで心に浮かんだり、先生の言葉もときどき聞こえてくる。

だが、同じ「聴覚」に属するものであるのにもかかわらず、音楽を感じる意識のレイヤーと、言葉を感じる意識のレイヤーは、別なところにあった。意識の中では「層」に分かれていた。

両者が違う階層にあったのは、考える言葉や聴く言葉には意味があり、音楽には意味がなかったからだろうか。意味付けの有無が階層を分ける。

だとすると、理解できない言語だったり、歌詞のついた音楽やメロディアスな音楽だったら、また違うことを感じたはずだ。

だが、いまこの文章を書いているとき、両者のレイヤーの違いをはっきり感じることはできない。それは、ヨガと禅により、身体と意識が一体化し、研ぎすまされたからこその氣づきだったのだ。文字通りマインドフルな体験をした。

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