詩と音楽

2017年1月21日 (土)

祈るようなイエスタデイ

祈りには様々なかたちがある。作曲家の故・武満徹さんは常々(彼にとって)音楽は祈りだと言っていた。

武満さんは私の「青春のアイドル」の1人。修業時代に鎌倉に住んだのは、彼の真似でもあった。

独学で作曲を学んだ武満さんは、若いころピアノを買えず、紙の鍵盤で音を想像しながら弾き、街を歩いていてピアノの音が聞こえてくるとお願いして弾かせてもらったという。専門教育を受けてこなかった私は、その姿に自分を重ねてよく自らを励ましたものだ。

さて、武満さんはオーケストラ曲がとくに有名だが、個人的にはギター曲も好きだ。「イエスタデイ」はもちろんオリジナルではないが、武満さんの美意識がよくわかる、詩のようで、祈るようなアレンジだと思う。


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2017年1月20日 (金)

詩と言語

一説によれば、ある言語で詩を理解できるなら、その言語をマスターしていることになるという。それくらい詩は、その言語が使われる文化独特のニュアンスに依る部分が大きいということだ。

例えば「古池や蛙飛び込む水の音」という芭蕉の句を英語圏の人に英訳させると、多くの人が蛙を複数形のfrogsと訳すという話を聞いたことがある。日本人なら、ほとんどの人がa frogと訳すのではないだろうか。

しかし、高浜虚子は「選もまた創作なり」と言った。俳句では読み手が解釈することもまた創作ということだ。そういう意味では、蛙が単数であろうと複数であろうと、読み手の脳裏で独自の解釈=創作が行われていい。

教えることをするようになって、言葉の解釈・認識というものが、本当に人それぞれなんだということがよくわかった。おそらく大教室の講義ではそのようなことには氣づかなかっただろう。だが、少人数で接していると「おれそんなこと言ってないし」ということがよく起きる。

例えば、上記の「言葉の解釈・認識というものが、本当に人それぞれなんだということがよくわかった」と話したとする。

それを一字一句違わず記憶する人もいれば、「言葉の使い方はひとそれぞれなんだ」と、若干単語を入れ替えて聞く人もいれば、言葉をことばでなく「印象」で聞く人は「人は十人十色の言葉を使うんだ」くらいに曲解(自分の都合のいいように解釈)したりする。

課題を出したりすると、その文言を広い意味に解釈する人もいれば、すごく狭い意味に捉える人もいる。

言葉のパワーというのは常に、誤解や解釈の違いから生まれるリスクと背中合わせなんだと実感する。

ところで、よく「音楽は世界共通言語」みたいなことが言われる。言葉には通じない人がいるが音楽なら誰にでも通じるということ。しかし、個人的にはほとんどそうは思っていない。

20代のあるとき、国際イベントのダンスパーティでDJをしたことがある。そのとき、当時はやっていたダンスミュージックに、世界中の人が踊ってくれるかと思って流したら、ラテン諸国の人々が皆ブーイングをしながら脇にはけた。

彼らが代わりにこれらを流せと持ってきたCDは、ラテン音楽ばかり。それらをフロアに流すと日本やヨーロッパの若者がさーっとはけて、ラテン諸国の若者は熱狂的に踊った。

当然といえば当然なのだが、そこまで好みが違うものかと思った。音楽も言葉同様、異文化間では通じないことがあると実感した夜だった。

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2017年1月19日 (木)

詩心

物語と詩の違いは何だろうか。ひとつの大きな違いは、物語には物事が変化する大きな時間の流れがあるのに対し、詩にはない(少ない)ことがあるだろう。

物語のなかでは、登場するものが、時間の流れとともに行動し、変化する様が描かれる。対して詩のなかでは、1つの感情、1つの情景、1つの体験が(一般的には)描かれる。

その意味で、詩は音楽に似ているし、また、写真とも似ている。

ある人が、現代では詩心を最も表現しやすいのが写真だと言っていた。詩人が生きづらい現代は、たしかにそうかもしれないと思う。

しかしそんななかでも、写真にはないが詩にはあるのが、「言葉の力」であり、私はそれを実感する。詩は、具体的な言葉をもって抽象的な感情を人の裡に喚起する。あるいはその逆。

以下、私の好きなウィリアム・ブレイクの詩をご紹介したい。

** *    *     * *       *

The Garden of Love

By William Blake

I went to the Garden of Love,
And saw what I never had seen:
A Chapel was built in the midst,
Where I used to play on the green.

And the gates of this Chapel were shut,
And Thou shalt not. writ over the door;
So I turn'd to the Garden of Love,
That so many sweet flowers bore.
And I saw it was filled with graves,
And tomb-stones where flowers should be:
And Priests in black gowns, were walking their rounds,
And binding with briars, my joys & desires.

愛の庭

ウィリアム・ブレイク

愛の庭に行くと
見たこともないものがあった。
かつて遊んだ緑のまんなかに
教会が建てられていた。

教会への門は閉じられていて
扉に立ち入り禁止と書いてあるので
甘い花が一面に咲く
愛の庭に向かった。
見ると
花があるはずの場所に
墓がたくさんあるではないか。
すると黒いガウンを着た牧師が見回りにやってきて
私の喜びと欲望をイバラで縛った。

(安達ロベルト訳)

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2017年1月18日 (水)

詩と音楽

一般の人々にとって、詩が身近な存在でなくなって久しい。

ウィキペディアのこのページを一目見れば、詩がどれほど人類にとって大切な存在でありつづけてきたかがすぐにわかる。「詩」と一言で括ってしまうのに抵抗があるほどのボリュームである。

しかし、現代の我々はどうだろう。読者の方で、詩を日常的に読んだり書いたりする方はどれほどいらっしゃるだろうか。現代日本で一般人が詩に日常的に触れるのは、歌の歌詞と川柳くらいかもしれない。

これはあくまで私の推測だが、この社会での詩の存在感は、録音音楽の普及と反比例しているのではないか。

かつて音楽がすべて「生」だった頃、つまり録音再生の技術がなく、音楽は演奏されるその場に居合わせない限りは聴くことができなかった頃、詩が、いま我々が録音音楽を聴くときにする体験と近いものを提供していたのではないだろうか。

もちろん大昔から音楽はあちらこちらにあって、海辺で畑で路上で人々は音楽を奏でた。だが、いま我々が誰にも邪魔されることなくヘッドフォンで「個人的に」音楽を聴くような体験を、かつて人々は一人本を開き、詩で味わっていたのではないか。

もう少し前、印刷がそれほど一般的でなかった時代まで遡ると、我々がいまホールに大枚を払って行くコンサートで聴く音楽のように、貴重な書物にある詩を味わっていたかもしれない。

詩で得られる体験は、音楽体験に似ていると思う。抽象的で、感情に深く関わる。

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