こころとからだ

2017年3月12日 (日)

心と砂糖

父方母方ともに糖尿病を患った者がいるので、私は遺伝的にみると「糖尿のサラブレッド」。血糖値には敏感にならざらるを得ない。さいわいまだなってはいないが、外見を見ただけで糖尿病になりそうな人をなんとなく識別できてしまうくらい関心はある。

世の中に流通しているさまざまな食品に多量の砂糖が含まれることは私を少々ぞっとさせる。なぜなら、人類が地球に誕生して以来、これほどまで多くの糖分を摂ったことがないからだ。

500mlの清涼飲料水(清涼という言葉は誤解を招くのでそろそろやめるべきだと思う)には、たいてい、人が1日に必要とされる糖分の2〜数倍の量が入っている。いっきに飲み干すコー○やカル○スウォーターは、大さじ数杯の砂糖をいっきに食べていることと実質的に変わらない。

某コーヒーチェーンは、コーヒーそのもののアレンジには限界があるので、代わりにいろんな「季節の砂糖」を加えることでバリエーションを出している。売れ線の氷を砕いた飲み物は、ほとんど砂糖と脂肪と水でできている。

ところで、前回の記事で「心」について述べた。そこで、人が文字を使うようになり、脳で思考することが増え、「心」の副作用が顕著になったという安田さんの話を引用したが、そのような人と「心」の関係は、人と砂糖の関係にも重なるのではないか。

ご存知のように、糖分は脳のために必要な成分で、健全な脳の活動には適度な糖分摂取が有効だ。

砂糖は長い間、貴重品だった。「うまい」と「あまい」の語源が一緒と言われるように、砂糖のような高糖の食品を一般の人々が今ほど口にすることはなかった。

それが、近代農業、流通、食産業の発達により、大量生産、大量消費されるようになった。それにより、糖分の過剰摂取、食生活の「糖化」の副作用が顕在化している。そしてそれは、人間の過度な「脳化」の副作用が顕在化するのとほぼ時を同じくしている。

人間の脳化と糖化には、なんらかの因果関係があったりするのだろうか。つまり、人が脳を多く使うようになったから糖が多く消費されるようになったかその逆の関係性、そして、心の病の原因が糖分の摂り過ぎだったりその逆だったりする可能性が。それとも単なる偶然の一致か。

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2017年3月10日 (金)

巨大化した心と知性のようなもの

安田登さんの「あわいの力」を読んだ。出だしが衝撃的だ。

「現代は『心の時代』と言われます。
しかし『心』は昔からあったわけではありません。
昔の人間には『心』がなかったのです。」

心がないとはどういうこと?と思った。心は物心ついたときからずっと私のなか(たぶん)にあったからだ。

ところが、漢字の祖先ができた紀元前1300年当時、5000くらいの文字が既にあったそうだが、そのなかに「心」に相当する文字はなかったのだそうだ(できたのはその3世紀後)。

「まず『文字』が生まれ、それからしばらくして『心』が生まれた。『文字』という道具を獲得し、それを使っているうちに、人間の脳がさらに発達し、その結果『心』が生まれた」という。

心とは、発達した脳がつくりだしたもの。脳を発達させたのは文字。それ以前の人間は、もっと身体の感覚に従って生きていた。

「自殺や精神疾患の増加が象徴的に示すように、『心』が身体を超えて巨大化し、人類は『心』を制御できなくなっているばかりか、自らがつくり出した『心』によって、いよいよ押し潰されそうになっているように思えてなりません。この『心』の副作用から逃れるには、『心』に代わる何かを手にするしかない。」(安田登「あわいの力」〜ミシマ社)

自分の生活を振り返ってみると、人と「言葉」について話すとき、ふと自分たちが無意識に「文字も含めたもの」を言葉として捉えていることに氣づく。

しかし、霊長類としての人間の長い歴史のなかで、文字が使われた期間はそれほど長くはなく、しかも、誰もが文字を使うようになったのは、かなり最近のことだ。

さらには印刷やデジタルによって簡単に交換・伝達できるようになったのは、「ついこの間」のこと。

「知性」と呼ばれるものも、言葉の占める割合が多い。そこでは文字が中心的な道具となる。

個人的な話で恐縮だが、私は、そういう意味での「知性」をさほど使わない世界に長い間いた。

幼児期は読書の代わりに空想のなかで文字のない物語をつくり、少年期はもっぱら運動をやり、並行して絵を描いたり、文字を使わず耳から外国語を学んだりした。

今でこそ私は文字を使って表現もする。私のことを「体育を休んでプールサイドで読書していたような子どもだった」と思っている人もいるようだが、現実はむしろその正反対。夏休みは宿題を最後の日までしない、読書もしない、その代わりプールと虫とりに明け暮れていたような小学生だった。その頃は安田さんがいうところの「心」で思考していなかった。

その後、アマチュア無線の資格を取るために無線工学やら法規を学び、パソコンでゲームをつくるためにコンピューター言語を学んだ。それらは言葉ではあったけれども、物語ではなく「ロジック」だった。小学校高学年から中学にかけての話である。

読書をするようになったのは高校に入ってから、本来の意味での読書をするようになったのは大学に入ってからである(運動は高校までかなりやっていた)。

このような生き方をしてきたから、不思議なことに(あるいは当然の結果として)、今でも思考の順序が「身体感覚→ロジック→言葉」だ。

だから、「『心』じゃないもの」で思考している割合が多いのが、自分でもよく分かっている。写真を教えるとき「視覚で考える」みたいな言葉をときどき使うが、はたして伝わっているのかどうか。

これもある種の知性なんだろうが、人はそれを知性と呼ばない。少なくとも知能指数を測るテストや学術のなかには含まれない。それでも私は言葉や文字を使わない「知性」というのはあると思っていて、そのことにずっと関心があった。

私がアートでやろうとしていることはまさに、この「知性のようなもの」で思考し、実感している「なにか」をかたちにすることに他ならない。

ところで、欧米で写真作品を見てもらおうとする日本人の多くが苦しんでいる「ステートメント」。なかには作品を言葉に置き換えられるはずがないと嘆いたり怒ったりする人もいる。言い分はもっともである。言葉にできないから写真にしているわけで。

だが、安田さんがいう「巨大化した心」を持つ人々に理解してもらうための手段がステートメントだとは考えられないだろうか。それはいわば、作品を言葉に「翻訳」することである。

考えてみれば、文学でも、厳密な意味での翻訳はできない。とくに詩はそうだ。例えば言葉遊び(英語の韻を踏むようなことなど)は他の言語には置き換えできないし、文化的背景に負うようなニュアンスも伝えづらい。

同じように、写真も言語への翻訳は不可能である。

しかし、翻訳次第で詩の本質が伝わり、読者が感動できるように、写真作品もステートメント次第で、伝わり方や感動の幅が変わる。映画だって、字幕や吹き替えがあるほうが圧倒的に伝わるのだから、ステートメントもそれくらいのつもりで書いてみたいものだ。

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