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June 24, 2007

雨の風景(18)

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June 22, 2007

金魚

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June 19, 2007

雨の風景(17)

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June 17, 2007

雨の風景(16)

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June 15, 2007

雨の風景(15)

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June 13, 2007

Easy Come, Easy Go (3)

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本を読んでいるときによく、"Easy Come, Easy Go"という諺を思い出す。

それは、内容の好き嫌いとは別に、筆者がどれだけの知識を持っているのか、どれだけリサーチしているのか、どれだけそのことについて考えているのか、どれだけ文を推敲しているのかによって、easyに私を通過するだけの本もあれば、そうでないものもあるからである。

ある作家は、1を書くのに10は書くと言っていたし、ある作曲家は、仕上げるまでに一度書いた曲から音を次々に削り落とすと言っていた。この「淘汰」の作業は、当たり前のようでいて案外むずかしい。だが、この「淘汰」あるいは「選択」のプロセスこそが、作品が洗練され、細部が磨かれる場だ。このプロセスを経た作品は、心をなかなかeasyには通過しない。

逆に、ちっぽけなもの、粗末なものを、他人には大きく、いいものに見せようとするとき、おしつけがましいわりには、後味の悪さだけ残して早く通過してしまう。

いい具合に洗練された作品はまるで、見た目はさりげなく美しく、口当たりは軽やかでありながら、何層もの深い味わいをもつ料理のように、その努力の過程を恩着せがましく見せずして、自らの存在感を示す。

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June 11, 2007

Easy Come, Easy Go (2)

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どんな仕事でも、第一線でやろうと思ったら、「せっかく」は禁句だと思う。

たとえばアーティストが、さんざん苦労してつくりあげたものにいまひとつ納得がいかなかったとする。さてどうするか。

ここで「せっかくつくったのだから」と言って、納得しないものを作品として世に出してはならいと、私は思う。過程に執着すると、結果を曇った目で見てしまう。

苦労をして手に入れたものであっても、時にはEasy Go-あっさりと放棄しなければならないことがある。これはけっこう辛い。周囲に苦労話の一つもしたくなるし、努力したんだから評価してよとも言いたくなる。

スポーツでも、商品でもそう。どんなに苦労を重ねて練習したり、莫大な費用をかけて開発したりしたものでも、結果がついてこなかったり、商品に魅力がなければ、それまでの話。残酷だが、いたしかたない(もっとも、救いがないわけではない。苦労したプロセスは、将来別なかたちで実を結ぶことがある)。

画家の友人はあるとき、制作に行き詰ったら、それまで一番こだわっていた部分を塗りつぶすというような意味のことを言っていた。自分のなかに「せっかく」という意識が出てきたとき、よくこの言葉を思い出す。

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June 09, 2007

Easy Come, Easy Go (1)

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英語の諺に"Easy Come, Easy Go"というのがある。意訳すると、「簡単に手に入れたものは、簡単に消えてしまう」というような意味だ。

特別好きな諺というわけでもないのだが、ことあるごとに思い出す。

富、人間関係、仕事、名声、、、。かたちは何であれ、「たなぼた」で手にしたものは、あっという間に使い果たすか、消えてなくなってしまう。消えるだけならまだいいほうだ。負に転じてしまうことだってある。

逆に、じっくりと腰を据えて取り組んだことの果実として得たものは、残る。

だからといって、それにしがみつくのもよくない。「去るもの追わず」。その加減がむずかしい。

と、ここまで書いて気づいたのだが、"Easy Come, Easy Go"は、「来るもの拒まず、去るもの追わず」にも訳せる。「来るときも楽に、去るときも楽に」。なんだか深い。

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June 02, 2007

記号とことば(3)

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我々の社会には、心の伴わない言葉が溢れている。

店に入れば「いらっしゃいませ、こんにちは」と形式的に叫ばれ、レジを出るときには「ありがとうございました、またお越しください」とこちらの顔も見ずに機械的につぶやかれる。

エスカレーターに乗れば「足元にご注意ください」と録音が流れ、動機は明らかに違うのに「地球のために」と謳われた商品が無数にある。

これらの文言はどれも、表面的で、「ことば」というより限りなく「記号」に近いものだが、その洪水のような量の多さに、受け取る側も使う側も感覚が麻痺してしまっているのではないか。本当は自分自身の「ことば」を使わなければいけない局面で、一般的な「記号」を発してはいないだろうか。

マニュアルどおりの記号を口にすることで我々は、責任を問われるリスクを軽減できるし、表向きは他人にサービスしているつもりにもなれる。だが、それを隠れ蓑に、本当は誰とも真剣に向き合っていないことを、無意識にごまかしてはいないだろうか。

写真も同じだと思う。

誰でも簡単に写真が撮れるいま、お金を出して機材を揃え、マニュアル通りに撮影すれば、誰もが表面的にはきれいな写真を撮ることができる。巷は右を見ても左を見ても写真が無数にある。だがその多くは、「記号」にしか過ぎないのかもしれない。

「記号」のような写真と、「ことば」としての写真の境界線はあいまいかつ多義的で、私もうまく言い表すことができない。「心を込めるかどうか」とかいう簡単なことでもないと感じている。

たかが写真でそんなに真剣になることもないと思われる読者もいるだろう。しかし、写真に携わるものとして、自分自身の価値における「記号」と「ことば」の違いは、常に考え続けたい。それは、「ことば」としての写真を撮らなければいけない局面で、「記号」に逃げることなく、常に自らの「ことば」を発することができるようにするためである。

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記号とことば(2)

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記号とことばの違いは、さまざまなもの(特に道具を使って何かを産み出すこと)に置き換えられる。

たとえば、楽器。

習い始めの、しどろもどろに楽譜を読み、たどたどしい手つきで演奏するころ、その楽器から出てくる音は「記号」に近い。

ちょと上達してくると、抑揚がつけられるようになる。この抑揚というものがなにげにやっかいで、「抑揚=感情」と勘違いするケースが多い。

楽器に限らず、大根役者の芝居や弁論大会などでも、やたら抑揚のついたしゃべり方を耳にすることがある。本人は感情を込めているつもりなのだが、それらは案外、心には響いてこないものだ。

「記号」を「ことば」に変えるのには、時間と訓練が必要だ。

では、カメラという道具が産み出す写真の場合はどうだろう。

情報を伝えるための「記号」としての写真と、そうでないものとがある。「記号」を「ことば」に変えるには何が必要なのか、写真に携わる者ならば、考えてみる価値はあると思う。

(つづく)

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