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June 02, 2007

記号とことば(3)

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>> リコーGR BLOGにインタビュー記事掲載
>> 安達ロベルト・オフィシャルサイト
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我々の社会には、心の伴わない言葉が溢れている。

店に入れば「いらっしゃいませ、こんにちは」と形式的に叫ばれ、レジを出るときには「ありがとうございました、またお越しください」とこちらの顔も見ずに機械的につぶやかれる。

エスカレーターに乗れば「足元にご注意ください」と録音が流れ、動機は明らかに違うのに「地球のために」と謳われた商品が無数にある。

これらの文言はどれも、表面的で、「ことば」というより限りなく「記号」に近いものだが、その洪水のような量の多さに、受け取る側も使う側も感覚が麻痺してしまっているのではないか。本当は自分自身の「ことば」を使わなければいけない局面で、一般的な「記号」を発してはいないだろうか。

マニュアルどおりの記号を口にすることで我々は、責任を問われるリスクを軽減できるし、表向きは他人にサービスしているつもりにもなれる。だが、それを隠れ蓑に、本当は誰とも真剣に向き合っていないことを、無意識にごまかしてはいないだろうか。

写真も同じだと思う。

誰でも簡単に写真が撮れるいま、お金を出して機材を揃え、マニュアル通りに撮影すれば、誰もが表面的にはきれいな写真を撮ることができる。巷は右を見ても左を見ても写真が無数にある。だがその多くは、「記号」にしか過ぎないのかもしれない。

「記号」のような写真と、「ことば」としての写真の境界線はあいまいかつ多義的で、私もうまく言い表すことができない。「心を込めるかどうか」とかいう簡単なことでもないと感じている。

たかが写真でそんなに真剣になることもないと思われる読者もいるだろう。しかし、写真に携わるものとして、自分自身の価値における「記号」と「ことば」の違いは、常に考え続けたい。それは、「ことば」としての写真を撮らなければいけない局面で、「記号」に逃げることなく、常に自らの「ことば」を発することができるようにするためである。

Hangnam1ss


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Comments

いつも拝見させてもらっています。
私も最近の電車のアナウンスには同じようなことを
感じています。
本当は何かあったときの対応なんですが、何もないときの
過剰なサービスは違和感がありますね。
写真に対するご指摘も心に留めておきたいです。

Posted by: groovy | June 03, 2007 at 01:44 AM

groovyさま、コメントありがとうございます。日常の過剰な情報は、本当に伝えたいことを埋没させてしまう可能性があるように私も思います。サービスのようでいて実は、万一のとき、こういう注意をアナウンスしていたのだから我々に責任はないと言えるようにするためのものが多いと思います。

Posted by: ロベルト | June 03, 2007 at 07:54 AM

音楽でも教科書通りに弾くことはできても、曲や音にうねりをだし、観衆を唸らせることはできない。

日常の生活の中で心やことばを大切にし、プリントの中に波をおこし、うねり、時には無音に、そんなことができればと思っています。
向き合う心こそ写真の楽しさであり、深さでしょうか。


Posted by: kohara | June 03, 2007 at 08:00 AM

koharaさま、コメントありがとうございます。私も日ごろから自分の発している言葉には心が込められているか、作品にはしっかり向き合えているか、けっこう気にしてチェックしています。プリントに波やうねり、静寂、ほしいですね。

Posted by: ロベルト | June 03, 2007 at 10:02 PM

同感です。いつからこうなったのかわかりませんが、日本を離れるとこの日常の異常に嫌でも気がつきます。
たとえば道を歩いていて向こうから人が来ると、ある距離までにアイコンタクトをとって自分が右に寄るのか左に寄るのかを
瞬時に確認することはお互いの日常的な慣行です。
ドライバーのいる車の前を横切る時は、ドライバーの目を見てアイコンタクトをとらなければいけないこともしかりです。
しかし日本では人の目を見てコミュニケーションすることはまるでタブーのように避けられているかのようにみえます。
この人の目を見るという基本が日常から欠落していることは、写真を撮るということでも目に見えない違いを生んでいるのではと思うのですが。
”普段人の目を避る人が撮る写真”にはなにか妙なズレを感じます。

Posted by: photomio | June 04, 2007 at 01:59 AM

photomioさま、たいへん興味深い視座をありがとうございます。普段人を直視できない人が、ファインダー越しにだけ向き合えるようになるというのはおそらくないのでしょうね。あったとしても、それは、真っ暗な客席からステージの人を見るような感覚で、1対1の人間の交わりではないのかもしれません。近年わが国では、そういう視点から写真を撮るフォトグラファーが評価されている傾向がなきにしもあらずですが、案外、海外では評価されずらいのかなとも思います。今日から、私が人と接し、アイコンタクトをとるときの意識が変わるように思います。感謝です。

Posted by: ロベルト | June 04, 2007 at 10:44 AM

近年になって一眼レフもAF・AEが主流になった頃、今まで道具であったカメラが頭脳を持つ機械となり、それを使用する者がその頭脳に頼りすぎ「楽」を覚え自分自身で試行錯誤をしなくなったのではないでしょうか。フィルム1本撮っても全てのコマに何らかの画像が取り込まれていて失敗が無いかの様に見えてしまうのがすごく怖いことで、気づく者は画像に「ことば」を見つけ、気づかない者は永遠に「記号」ばかりを追ってしまうことになるのではないでしょうか。

Posted by: tefteff | June 08, 2007 at 02:17 AM

tefteffさま、コメントありがとうございます。同感です。カメラや写真に何を求めるかは、個々人の自由だと思いますが、これができないカメラは最先端ではないだとか(たとえばレンズのMTF)、これが撮れない人は写真をやる資格がないかのごとく「記号」を提示し、本人は真実だと思っている好みを強要する専門家やマニア、写真の先生の存在が怖いと思うことがあります。本来自由であるはずの写真表現や商品開発に、それらに踊らされながら、あるいはびくびくしながら取り組む人々がけっこういて、残念に思うことがあります。

Posted by: ロベルト | June 08, 2007 at 10:52 AM

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